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橋姫07奈良の都のペルシャ人 [橋姫]

white_glass_bowl.jpg
宮内庁HPより 白瑠璃椀

橋姫07奈良の都のペルシャ人

正倉院の白瑠璃椀は、6世紀のササン朝ペルシャの王立工房で制作されたとされている。
同種のガラス器は約2000点現存するとされているが、すべてイランの古墳の土中から発見
されたもので、一度も土に埋もれる事無く美しい状態で 発見された唯一のものである。
白瑠璃椀は、ササン朝ペルシャの王が臣下や貴族に下賜するために特別に制作したもので
あった。白瑠璃椀が発見される古墳被葬者もこれに該当する。
正倉院の白瑠璃椀は、ササン朝ペルシャの王族階級によって日本に持ち込まれた可能性が
高いのではないだろうか。


642(皇極)年 ネハ―ヴァントの敗戦によりササン朝(イラン)滅亡
       ササン朝王族、遺臣らはトカーレスターンに亡命政府を作った。

654(孝徳)年 夏四月、吐火羅国の男二人、女二人、舎衛の女一人、風に会って日向に
       漂着した。

657(斉明)年 秋7月3日、都貨羅国の男二人、女四人が筑紫に漂着した。
       「私どもは始め奄美の島に漂着しました」と言った。
駅馬を使って都 (飛鳥岡本宮)へ召された。

657(斉明)年 7月15日に須弥山を象ったものを、飛鳥寺の西に作った。また、盂蘭盆会
       を行った。夕方に都貨羅人に饗を賜った。

659(斉明)年 3月10日、吐火羅の人が、妻舎衛の婦人と共にやってきた。

660(斉明)年 秋7月16日、高麗の使人乙相賀取文らは帰途についた。また、都貨羅人
       乾豆波斯達阿は、本国に帰ろうと思い、送使をお願いしたいと請い、
       「のち再び日本に来てお仕えしたいと思います。そのしるしに妻を残して
       参ります」と言った。そして十人余りのものと西海の帰途についた。

675(天武)年 春1月1日、大学寮の諸学生、陰陽寮、外薬寮および舎衛の女、堕羅の女、
       百済王善光、新羅の仕丁らが、薬や珍しい物どもを捧げ、天皇に奉った。

736(聖武)年 8月23日、遣唐副使従五位上の中臣朝臣名代ら、唐の人二人、ペルシャ人
       一人を率いて、帰国の挨拶の為天皇(聖武)に拝謁した。
       11月3日、天皇は、朝殿に臨御し、(中略)唐人の皇甫東胡、ペルシャ人
       李密翳らにはそれぞれ身分に応じて位階を授けた。

753(聖武)年 唐朝正月、玄宗皇帝との謁見式での席次が、大食(アラビア)、吐蕃(チベ
       ット)、新羅(韓国)、日本であることに、新羅はずっと昔から日本に朝貢
       している国であると抗議した。

・トカラ国について
トカーレスターン(吐火羅国、都貨羅国)は、「トカラ人の土地」を意味し、現在のアフ
ガニスタン北部、タジキスタン及びウズベキスタンに当たる。原住民のトカラ人は、イ
ラン系であったが、バクトリアと呼ばれ、アレキサンダー大王の東征によってギリシャ
文化の影響を受けた。642年アラブ軍にネハ―ヴァントの敗戦し、651年中央アジアのト
ルクメニスタンでヤズダギルド王は暗殺された。王には2人の王子と3人の王女があり、
そのうちのペーローズ(卑路斯)は群臣とともにトカレースータン山中に逃れ、王朝の再
興に望みをかけた。677年トカーレスターンにもアラブ軍が侵攻し、ペーローズは、唐に
亡命した。20年留まったその子ナルセース(泥槃師)も、708年唐に亡命した。

・トカラ人乾豆波斯達阿についての伊藤義教説
乾豆:トカーレスターンの地名クンドウス
波斯:ペルシャ人
達阿:ダルア→ダーラーイ(アケメネス朝王ダレイオスに遡る王族の名)

・舎衛婦人についての井本英一説
舎衛:トカーレスターンの地名Shawe又はSawe

・堕羅の女
堕羅=達阿=ダーラーイと舎衛婦人の間にできた娘


白瑠璃椀を携えていたペルシャ人とは、ササン朝ペルシャの王族一家
であったと思う。








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