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海人02 百越の遺民 [海人]

三星堆遺跡.jpg
中国三星堆遺跡の日本の銅鐸によく似た発掘物

海人02 百越の遺民

6300年前 長江文明成立
 
中国長江(揚子江)流域に長江文明誕生。常緑樹の深い緑と豊かな大河、稲作の青々とした
水田の広がる、稲作漁撈民による豊かな「再生と循環の文明」であった。
稲作は、苗代から田植え、水田の水の管理、草取りと、畑作と異なり、高度な技術と熟練
を要するため共同体の助け合いが必要となる。豊穣を祈願する祭祀者が集団のリーダーに
なっていったと思われる。

・浙江省 河姆渡遺跡 BC6000-BC5000
 ジャポニカ米による稲作発祥の地、高床式住居
・四川省 龍馬古城宝?遺跡 4500年前
 長辺1100M、短辺600M、高さ7-8Mの城壁に囲まれた巨大都市
・湖南省 城頭山遺跡 6500年前
 直径360M、高さ5Mの正円の城壁に囲まれた城塞都市 世界最古の水田 農耕儀礼に祭壇

岡山県朝寝鼻貝塚 BC4000(河姆渡遺跡滅亡) 米の化石発見
 


4200年前 気候寒冷化により北方民族(漢民族)南下 

気候の寒冷化と乾燥化により黄河流域の民は南下し長江流域に押し寄せた。
「史記」によれば、漢民族最古の王朝、夏の堯、瞬、禹という三代の王が、中原(黄河流
域)から江漢平野に進出し、三苗(苗族の先祖で長江文明の民)と戦い滅ぼした。
苗族の伝説によれば、祖先が黄帝(漢民族の伝説上の帝王)の子孫と戦い、破れ斬首された。


2000年前 長江文明の遺民が九州に到達

畑作牧畜の「収奪と侵略の文明」である漢民族の武力制圧によって、長江文明の民は、雲
南省や貴州省の山岳地帯に追いやられた。又、海に逃れた者は台湾や日本列島に逃れた。
南九州の笠狭崎は中国から海を渡って日本列島に来るときに漂着する場所として知られて
いる。735年長江を下った鑑真が沖縄を経て漂着したのも笠狭崎周辺である。
漢民族に負われた長江下流域の民が漂着した南九州こそ、天孫降臨の場所である。
日本書紀においてニニギ尊は高天原から南九州高千穂峰に降臨し、住みよい土地を求めて
薩摩半島最先端の笠狭崎に移り、木花之開耶姫と結ばれている。
長江文明の遺民たちは、日本列島に漂着し、火山の噴火を生き延びた縄文の人々と融合し
ていったものと思われる。

佐賀唐津市 菜畑遺跡 BC700 水田跡

長江文明と弥生文明の共通点
・太陽信仰 太陽の運行が稲作の作業管理に重要
・鳥信仰  太陽を運ぶ 太陽の永遠の循環を助ける
・発酵食品 味噌、醤油、なれ寿司
・漆
・絹
・鵜飼   主なたんぱく源は魚
・稲作   ジャポニカ米
・高床式
・歌垣

呉(BC585-BC473)が越に破れ滅亡し、遺民として日本列島に到達。
この後隋唐という強大な国家が誕生するまで、大陸で滅亡した国の民は、次々と遺民とな
って海に出て日本列島に到達することになる。




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