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野宮04伊雑宮と金星 [野宮]

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金星 「天津甕星」「明星」

野宮04伊雑宮と金星

星神を中国「太一」思想だけで捉えることは十分ではない。「天津甕星」である。
葦原中国平定に最後まで抵抗した神、別名天香香背男、星神香香背男、である。
日本神話の中で、星神は「服従させるべき神」、「まつろはぬ神」として描かれている。
征服された人々の信仰が星神であったのか、征服された神に星神が習合されたのかは不明
であるにしても、太陽と星、 昼と夜、光と影、表と裏、支配するものとされるものという
二元論の中で、太陽信仰の輪廻と一体となった二元論に必要不可欠な存在であった星神は、
金星である。

「天津甕星」については諸説あるが、おそらく「金星」であろう。
星々の中で、神威大なる、甕のように大きな、光り輝くという名にふさわしく、日本人に
「宵の明星」「明けの明星」として親しまれ、和歌にも多く読まれてきた。
金星はすべての星の中で最も高度が強く、昼でも見ることができる。
地球から見える天体の中では、太陽と月に次いで明るく見えるのが金星である。
地球から見て、太陽と金星の間にできる角度を離角といい、太陽より東に見える時を東方
離角、西に見える時を西方離角といい、宵の明星は東方最大離角45°、明けの明星は西
方最大離角45°の金星である。
天香香背男という別名は、香香=蛇+背=男+男、という意味であろう。
蛇は男性としての太陽神のシンボルであり、妙に男性を強調した名前であり、作為を感じ
させる名前である。古代社会で男性太陽神とペアで奉斎される金星神は女神である。

メソポタミアでは金星の女神は「イシュタル」或は「イナンナ」と呼ばれ「天の女主人」
を意味するとされている。古代ギリシャのアフロディーテ、ローマのヴィーナスと同一視
されている。王権を授与する神でもある。
ゾロアスター教で崇拝される女神「アナーヒーター」「アナーヒト」といい、「清浄」を
意味する。主神アフラ・マズダー、太陽神ミスラとともに重要かつ最高級の神である。
本来は川や水を司る水神である。この女神は世界の中央にそびえ立つアルプス山の頂から
流れ出る川を守護するとされ、この川はあらゆる水路、川、入江、湖沼の源であると考え
られているため、アナーヒーターはそれら広くの女神とされる。
更に、この川の水が生命を育成する源泉と考えられ、アナーヒーターは健康、子宝、安産
、家畜の繁殖、作物豊穣の神ともされ、財産や土地の増大をも司どる。その絶大な神徳か
ら、サーサーン朝ペルシャの時代に極めて篤く崇拝された。

「天津甕星」は、「天照大神」が伊勢神宮で女神として奉斎される以前に、男神の「天照
大神」とペアで崇拝されていた大地の地母神、豊穣の女神なのではないか。
伊勢神宮の伊雑宮の神紋は「六芒星」、星神である。
これは「天津甕星」ではないか。
伊雑宮の「お田植え式」は志摩地方第一の大祭で「竹取り」と「お田植え」からなり、
田植えの神事の前の田に、扇に「太一」と書かれた大きな扇のついた竹たて、苗取りの後
杭から引き抜き田に倒した竹をを奪い合うのが「竹取り」の神事である。
まさに豊穣の女神に捧げる祈りの祭ではないか。 竹は太陽神、蛇の象徴、竹が立てられる
田は地母神、大地の象徴。「お田植え式」は陰陽合一の祭と言える。
「天津甕星」は、太陽神とペアであった金星神が、太陽神が女神となることでその地位を
追われ、至高神、北極星によって星神の名まで奪われたのではないだろうか。

「天津甕星」の「天津」は天孫族を示し、「甕」は太陽が沈んでから再び昇ってくるまで
隠れている天空の大きな甕であり、それは明星によって象徴され、太陽神の化身である蛇
を入れていた甕であり、がらんどうの虚空であろう。

中国では、古くは宵の明星と明けの明星を別々の星と考えており、明けの明星を「啓明」
、宵の明星を「太白」と呼んでいた。陰陽五行説においては、宵の明星を「太白昼見」と
して兵革の兆しとし、臣が君を損なう凶兆とされている。女神 天照大神の出現に際し、
中国陰陽五行説の導入することによって、金星たる「天津甕星」は、「太白」としての側
面のみ強調され、その強い光輝故に、太陽の出現を妨げる「悪しき神」とされたのであろ
う。
新しい女神の誕生の為に、かつてのこの国の古いの女神が、伊雑宮に封印された。
伊雑の宮の別名「遥宮(とおのみや)」とは、距離の遠さでなく時間の遠さではないか。



野宮03荒祭宮と北極星 [野宮]

北極星.jpg
北極星

野宮03荒祭宮と北極星

伊勢神宮内宮は「太陽神」である「天照大神」を祀る宮である。そこに中国思想「北極星」
に象徴される「太一」が習合された。
外宮は内宮「北極星」に対する「北斗七星」として、「太一」の車として、援護者として、
食物の給仕者として、内宮の北西に勧請された。
太陽神である天照大神に、宇宙神である太一を習合させるにあたり、天武天皇が持ち込ん
だ思想が陰陽道である。

「 隠された神々 吉野裕子」より抜粋
周知のように、皇大神宮のみ敷地は東と西の二つに分かれている。1973年秋のご遷宮
以来、正宮は西のみ敷地に鎮座されるが、この西のみ敷地の真北に荒祭宮が御鎮座になっ
ている。東のみ敷地からは荒祭宮はやや西北にあたる。
中国思想においては、「西北」は「幽」、「北」は「玄」の語で表現される。
「幽」も「玄」も「かくろえる所」を示す。ものの始めは「幽玄」である。
この物の始め、原初である幽玄の北の太極、荒祭宮から東西に二極を示す二つの正宮のみ
敷地が岐れ出ている様相は、周廉渓の説く、「太極図説」を思わせるのである。
「無極にして太極なり。太極動きて陽を生ず。動くこと極まりて静なり。
静にして陰を生ず。静かなること極まり復動く。一動一静、互いにその根となる。
陰に分かれ、陽に分れて両儀立つ、陽変じ陰合して、水、火、木、金、土を生ず、
五気順布して四時行わる」
伊勢神宮では式年遷宮が20年ごとに行われる。これによって正宮のご神体は第60回遷
宮では、東から西へ、その前回には西から東へ動かれるたことになる。その動きは、日本
古代信仰における神の在り様、輪廻を象徴すると思われる。
又、正宮の北に鎮座の荒祭宮を太極とすれば、この東西のみ敷地はそこから派生した陰陽
の両儀ともみられ、その意味で荒祭宮とこの東西のみ敷地は、中国哲理の造形ともみなさ
れるのである。

天武天皇は、日本の国体に太陽神を据えることで、「太一」思想の中国文明圏からの独立
を宣言し、同時に太陽神の裏に「太一」を隠すように祀ることで、「天照大神」を「太一」
の上に、日本を中国の上に捉えたのではなかろうか。
(現在の韓国が太極図を国旗にし、明治以降の日本が日の丸を国旗としていることは、朝
鮮半島が中国文化圏そのものであることを象徴し、日本は中国文化圏とは異質の独自の文
化であることを象徴していると思われる。経済軍事大国となった中華人民共和国と隋唐は
重なる部分も多く、現代日本人も天武天皇に学ぶ所が多いように感じる。)

荒祭宮に隠された神は「太一」北極星だけであろうか。
太陽神、女神としての天照大神を国体に据えることによって、古代日本の男性としての太
陽神は、出雲・熱田・鹿島の東西太陽軸ラインに別の名前で、厳重に封印した。
太陽神の神殿である伊勢神宮の地においては、この荒祭宮にひっそりと祀られていると私
は確信する。


野宮02伊勢外宮と北斗七星 [野宮]

北斗七星.png
北斗七星

野宮02伊勢外宮と北斗七星

天の中央に鎮座し、満天の星を支配する神を古代中国では「太一」と呼んだ。「太一」の
座所こそ、南北軸の北を司る「北極星」である。
「北極星」は世界の中心にあって動かない。そこで「太一」の神は、天の車に乗って宇宙
を一年で一巡し、五行の気を循環させ、世界を統治する。その車こそ「北斗七星」である。
「太一」が天照大神に集合されたとき、「太一」の乗り物である「「北斗七星」は、外宮
の豊受大神に習合された。
太陽神として死と再生を司る循環する神であった天照大神が、宇宙の中心の絶対の神とな
り、豊受大神に乗って宇宙を循環し統治する、世界の中心に座す神へと昇華したのである。

遷宮の際、ご神体をくるむ「御被」と呼ばれる衣装は門外不出・複製厳禁の霊衣である。
その秘紋が、天照大神のご神体をくるむ御被は、「屋形文錦」で、「太一」の座所である
北極星を暗示し、豊受大神のご神体をくるむ御被は、「刺車文錦」で、帝車「北斗七星」
を暗示している。

神嘗祭の行われる旧暦9月16日(新暦10月22日)・17日の子の刻(午後12時)
には、北斗の剣先は北(子)を指し、牛の刻(正午)には剣先が南(牛)を指す。
子の刻と牛の刻は、五行では「水」と「火」、方位では「真北」と「真南」である。
つまり神嘗祭の日取りは北斗によって南北軸が描かれる時に設定されている。

6月と12月の月次祭は、逆に、天に東西軸が描かれる時に設定されている。
旧暦6月17日(新暦7月22日)子の刻(夜中0時)に北斗の剣先は真西を指し、
斎宮によって玉串が捧げられる牛の刻(正午)に北斗の剣先は真東を指す。
旧暦12月17日(新暦1月22日)子の刻(正午)に北斗の剣先は真東を指し、
斎宮によって玉串が捧げられる牛の刻(夜中0時)に北斗の剣先は真西を指す。

大嘗祭における「御禊の儀」は皇太子が天皇霊と合体する、東西軸を用いた死と再生の
儀礼であり「大嘗宮の祭」は新天皇として神に神撰をささげる、南北軸を用いた神顕現
の儀礼である。

「 隠された神々 吉野裕子」より抜粋
伊勢を中国哲理による「太一」とするためには、天照大神を「太一」に習合させなければ
ならない。そうしてその次の段階としては当然「太一」と不可分の関係にある、北斗の神
も新しく祀らねばならぬことになる。しかも中国思想において「天」を象徴する方位は、
西北であるから、新しく大神を勧請する場合、当然それは西北の方位から迎えなければな
らなくなる。そこで、西北の丹波から、「止由気」という神が勧請され、「太一」を祀る
内宮に対して、その西北にあたる渡会の地に、鎮座されることになった。「太一」は内、
北斗は外であるから、ここにおいて「内宮」「外宮」の呼称が成立した。伊勢神宮におけ
る第二の変化とは、つまり天照大神と「太一」の習合の結果、必然的に起こった新事態、
まったく新しい北斗という外国の神の勧請ということであり、同時に内宮と外宮の成立で
ある。北極星象徴する天皇の呼称に、十分値する大王であった天武天皇は、こうして伊勢
の皇祖神を自身と同じく宇宙神「太一」にまで崇め、そこに北斗をも配して伊勢の宮居を、
中国哲学における「天宮」「紫微宮」としたと思われる。


野宮01伊勢神宮と太一 [野宮]

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伊雑宮の御田植式

野宮01伊勢神宮と太一

神武天皇に伝えられた三種の神器の一つ八咫鏡は、代々宮中内で祀られていた。
崇神天皇 5年、疫病が流行り、
崇神天皇 6年、疫病を鎮めるべく、宮中内より、「天照大神」と「倭大国魂神」を皇居
        の外に移した。
崇神天皇 7年、「大物主神」の神主太田田根子とし、「大神神社」創建
        「倭大国魂神」の神主市磯長尾市とす。
垂仁天皇25年、「天照大神」伊勢神宮内宮に御鎮座
雄略天皇22年、「豊受大神」丹波国比沼真奈井原より伊勢神宮下宮に遷座
天武天皇14年、式年遷宮の制を制定(685年)

当初、日本における世界認識の軸は東西であった。
昼夜の循環を司り、光と熱によって万物を育む太陽は、古代人にとって最も重要で輝かし
い存在であり崇拝の対象であり、至高の神に最もふさわしい存在であった。
毎日規則正しく東から誕生し、毎夕規則正しく西に没する没する太陽を見て、東は、生命
誕生・再生の方位、西は死の方位、子宮・胎・穴を象徴した。
この太陽の聖なる東西ラインを尊び、生命の循環を尊ぶ日本人の霊性は、日本という国の
形に負うところも大きい。日本は東西に伸びる島国である。
南北方向は海であり、大和朝廷を中央とするなら残る国々は、東国と西国しかなかった。
日本列島の上に東西軸を取った時、最長の長さになるのは出雲―鹿島ラインである。
日本の国土の西端は「出雲大社」、東端は「鹿島神宮」、中央は「熱田神宮」である。
ほぼ同緯度の東西軸線上に、等間隔に日本最古の由緒を誇る神宮と大社が鎮座し、中央の
熱田には「草薙の剣」が奉斎されるのである。

日本列島に、これまでなかった南北軸と中心という概念をもたらしたのが、中国の「陰陽
五行思想」である。満天の星々の中央に鎮座する神「太一」の座所である北極星と、その
真向い地上の王たる天子の祖霊を祀る南の天廟を結ぶラインが南北軸であり、そこには、
「天と王権」という新しい支配概念が含まれている。
日本が隋唐の中国文化圏の中で、その影響を受けながらも国家としての独立を守り、独自
の文化と社会を築いていく中央集権国家体制を完成させるために天武天皇が必要とした思
想こそ「太一」である。ここに、東西軸の世界において死と再生のシャーマンであった祭
祀王は、国家権力としての天皇となるのである。

「 隠された神々 吉野裕子」より抜粋
こうして天武朝に至るまで、皇祖神の天照大神だけを奉斎していた伊勢神宮は、陰陽五行
が入り、それと習合することによってその性格を微妙に変える。
すでに推古天皇15年(607年)以来、天武朝(672年)に至るまでには、65年の
歳月が過ぎている。その間、白村江の敗戦、壬申の乱のような内外の戦はあったにしても、
国家諸制度の整備、経済の発展は皇権の各段の伸長を促し、天皇像を高める周囲の客観的
情勢は、それ以前のいかなる時代にもまさっていたと思われる。
しかし事はそれだけではすまなかったはずである。国土、つまり現世を代表する天皇の昇
格は、同時にそれに対する神界、伊勢神宮の昇格をまってはじめて完成されるのである。
中国哲学に説かれる天の北極を中心とした天宮にまで伊勢をたかめてこそ、この日本の現
世・幽界ともに宇宙的規模にまで発展させられるのである。
こうしてそれまで東西の横の関係にあった神界と人間界は、中国風に天と地、上と下の縦
の関係に置き換えられることになる。この立体的な上下の関係を地上に持ち込んで平面化
すれば、神聖視される方位は、日本古代信仰における東方重視ではなく、北または西北の
方位となる。北は「太一」の居所であり、西北は「易」における「乾」で、天を象徴する
とされているからである。そこでもしこれまでに、この地にすでにあったとすれば、東向
きであったに相違ない伊勢神宮内宮の社殿は、神が北天を負うことになったため、必然的
南面することになったと私は推測する。




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