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翁10隠された星神シリウス [翁]

星宿図.jpg
キトラ古墳の星宿図

翁10隠された星神シリウス

天津甕星は、古事記には登場しない。日本書紀においては、経津主神武甕槌命は、服従
しない鬼神をことごとく平定したが、星神香香背男だけが服従しなかったので、倭文神
建葉槌命を遣わし懐柔したとしている。
全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。日本書紀の編纂前の皇統に
属しながら悪神とされるに相応しい人物といえば、スサノオあるいは蘇我氏だろうか。
星神として、日本書紀に名を残す唯一の神、香香背男のモデルは実在するのだろうか。

・ 金星はすべての星の中で最も光度が強い。
・国文における星の記述は、金星が最も多い。
 斎藤国治氏の「国史国文に現れる星の記憶の検証」によれば、「太白昼見=金星が昼間
 見える」の記事は、上代だけで9例、近世までの全用例を含めると58例見られる。
・金星が「天に最初に現れ最後に去るもの」であり、最後まで服従しない悪神に相応しい。

金星「太白」は天武朝の陰陽五行説の中で、悪役として名を残すことになるが、人々の記
憶からの抹殺はのがれている。
人々の記憶からその痕跡をまったく消された星がある。シリウスである。
夏至線と冬至線の好転に碁盤目上ひかれた太陽ネットワークを作り出した縄文太陽文化と
天武天皇による国体としての太陽神天照大神の誕生の間にシリウスを星神とする時代があ
った。 金星は縄文の太陽信仰に付随していたために、天照大神の世界にも残ることがで
きたが、シリウスについては、抹殺の強い意志が働いたのか、そもそも支配者階級のごく
一部の層にしかなじみがなかったためか、その後の人々の意識そしてその記憶から消えて
しまうのである。シリウスを日本に持ち込んだのは誰なのか?

キトラ古墳の天井に描かれた天空図は、高松塚古墳の精密な星宿図をしのぎ、極めて精
度の高い天文図として世界最古のものである。地平線に当たる位置に外視を丸く描き、
北極を中心とした天空の位置には内規を同心円に描いている。その間には赤道円と黄道円
が交差して描かれ春分と秋分の位置を明示している。石室西壁に描かれた白虎は中国や高
句麗古墳が南向きなのに対して北向きである。高句麗古墳の星宿図が北極と北斗七星付近
の星と二十八宿が基本となっている。星宿図の中でひときは大きく描かれているのはシリ
ウスとカノープスである。カノープスは緯度によってはまったく見えない星であり、そこ
からこの星宿図が北緯34度の付近で観測されたことがわかる。
キトラ古墳の埋葬者と、この星宿図に密接な繋がりがあったことは間違いない。

その星はローマではシリウス、ギリシャでソティス、エジプトでソプト・コプト、中国で
天狼星と呼ばれた。

真鍋大覚「儺の国の星」より、シリウスの日本名を抜粋 
・宵星、暁星
・夜門星、夜通星
・恵蘇星、与謝星、耶蘇星 :クリスマス前後に南中したため
・とよみぼし、よとみほし
・石籠星、澪標星、夷守星 :灯台のこと
・風雪星
・ふゆしらす、しらす
・阿房星、未央星
・節分星  :春夏秋冬の兆候を示す
・気分星、化粧星
・鵲裳星、石匠星
・湯面星、湯具星
・五十星、活目星、最明星 :シリウスBがAの周りを50年で公転
・一目星
・卒土星
・浮屠星

シリウスは航海にとって重要な星であったようだ。シリウス自体が灯台の役割を果たすほ
ど明るい星であり、伊豆石廊崎、三河伊良湖崎、常陸五浦などの地名に残る。
宋から元の時代(960~1368)、中国は博多津を五龍山と呼んでいた。今津から姪
浜あたりで、倭人は「いすら」と呼んでいた。異邦人の港だったために、外(袖)の湊と
呼ばれていた。水深が十分にあり、各所に石籠が一晩中焚かれていた。

中東では一年を7か月に分け1月を52日としていた。50をイカ、残り2日はタラシで
1月はイカタラシと呼んだ。エジプトでは夏至の正午を1年の中日とした。
50は神聖な数字とされていた。

皇極帝の皇極とは磁針のことである。このころから、人工の磁針を坩堝で作り鍛錬すること
が可能になっていた。和船に必ず磁石を携行するようになったのもこの頃である。

古代エジプトでは、太陽は沈むことで死に、新しい太陽が昇るまで、夜空で最も輝くシリ
ウスになると考えられ、太陽信仰と共にシリウスが信仰されていた。
そしてそのシリウスが神格化されたのが、「女神ソプデト」「女神イシス」で豊穣の神で
ある。シリウス星の出てくる方向に建てられた女神イシスの神殿では、ヘリアカルライジ
ング(太陽と同じ頃に出て同じ頃に沈む)の朝は、太陽とシリウスの光が交じり合いなが
ら神殿内に差し込んだといわれている。

日本列島に「太陽信仰の東西ライン」をもたらした天孫族、「 中国の太一思想による北
極星と北斗七星」を習合させた天武天皇、私はその二つの間にあった古墳時代から飛鳥朝
にかけての「シリウスの聖方位」を忘れてはならないと思う。
「シリウスの聖方位」は真北から西に約20°傾く軸線である。おおよそ北北西である。

「シリウスの聖方位」を軸としていると考えられる古代都市
バビロン(バビロニア)・ポンペイ(ローマ)・ペルセポリス(ペルシャ)・西安(中国)
・洛陽(中国)・斑鳩京(日本)・平安京(日本)
「シリウスの聖方位」を軸としていると考えられる古代建築
ジグラット神殿(シュメール)・バビロン神殿(バビロン)・テオティワカン太陽の神殿
(メキシコ)・法隆寺(日本)・中宮寺(日本)・発起寺(日本)・広隆寺(日本)・
四天王寺(日本)

シリウスが日本の歴史の中で意識された期間は短く、やがて人々の記憶から消えてく。
「シリウスの聖方位」北北西ラインは、陰陽五行の「天門・地門」の北西ラインに習合さ
れ、「内宮の太陽」に対して「伊雑宮の明けの明星」の背後に隠されていく。
陰陽五行の流布の中で「シリウスの聖方位」は「幽玄」へと習合されていく。
栗本慎一郎著シリウスの都飛鳥によれば、飛鳥朝はシリウスの都だった。






野宮07籠りと異界 [野宮]

野宮07籠りと異界

「幽」とは西北であり、「玄」とは北である。幽玄は西北と北の間の領域を指し示す言葉
である。又、「幽」とは微かで奥深いことであり、「玄」とは暗く奥深いことであり、
幽玄とは、微かで、暗く、奥深いことである。
中国の言葉であり、死後の世界や老荘思想の境地を表す言葉であったこの、「幽玄」が、
日本独特の美学に昇華していったのは何故だろうか。

輪廻、あるいは循環の思想は、太陽信仰によるものだろう。エジプトでは再生の為に死者
の体を保存した。死者の暮らしのためには、死者の町もそのままそっくり作られた。
日本において死者の霊は山にある。そして霊は山から里を訪れる。人里から遠く離れた奥
深い山は、霊の住む異界である。
東から昇り西に沈む、生と死を永遠に繰り返す世界において、異界は現世と同一平面上に
存在している。

人は、生まれ出るまで、子宮という暗く奥深い所で細い紐で母に繋がったままじっと籠っ
ている。紐の先は母という全宇宙である。誕生とともに全宇宙とつながった紐は切断され
人になる。誕生することで、宇宙から切り離され、死までの時間を生きる。

異界も子宮も暗く深い静かな混沌の世界である。

紫式部は、源氏物語の執筆にあたり石山寺に参籠している。文学や美術などの芸術に限ら
ず科学であれ思想であれ、創造という作業に必要不可欠な行為は「籠り」といっていい。
定理であれ発見であれ、深く暗く長く辛い「籠り」の先に、微かに来臨する光のような
物を会得した時、そこに創造があり、誕生がある。
「籠り」の時間とは、異界への旅路であり、その過程で光のようなものを得、帰還する。
「籠り」には「禊」という自己放擲という作業も伴う。「禊」が十分でなければ、光を
得る事も出来ない。
紫式部の執筆の作業は、石山寺での精進潔斎の日々と、祈りの生活の中で得る霊感や
啓示のようなものを手掛かりとしていたように思う。

優れた芸術を、「幽玄の境に遊ぶ」「幽玄に入る」と評するとき、「幽玄」という場所
が、現実社会から遠く離れた「異界」を示しており、世俗の人が立ち入ることができない、
夢幻世界との交わりを示している。
「異界」との交わりであるから、その感覚は言葉で語りつくせるものでもなく、微かに
感じる気配でしかない。したがって当然に万人が感得できるものでもない。

「幽玄」という美を発見したのは日本人であり、なぜそれを発見しえたかといえば、それ
は日本人が現実世界のそのすぐ裏側に「異界」という世界をもっていたからであり、すべ
ての創造が異界との交わりよってのみもたらされることを良く知っていたからだろう。

最高の美や創造は、人智を超えた異界からもたらされるものであり、それが得たければ、
自らが、がらんどうの器になってその来臨を祈ることしかないのだろう。
日本の伝統文化における極端な精神主義は、まさにこの方法論の極端な弊害ではあるが、
それは方法論の間違えであり、科学や理論と決して相容れないものではない。
誤解を恐れずに言えば、優れた発見や発明も「幽玄」であるといえる。

最高の美とは、歌であれ舞いであれ、そこに霊魂の世界からの波動のようなものを受け取
ることのできるものを「幽玄」というのであろう。
それは文学であれ、絵であれ、声であれ、異界からの降臨を受容できる清らかな器である
からこそ可能になるものであり、能であればそれが「型」なのだろう。
そして「幽玄」の美は、説明不可能な、感じることしかできないものである。

斎宮に籠り、禊と祈りの日々を送る斎内親王は、神妻であると同時に、異界との境に立つ、
境界の女神であり、かつての日の巫女の再臨である。
幽玄の美とは、およそ現代の私たちにはおいそれと得られない、野生の片鱗ともいえる。





野宮06六芒星と幽玄 [野宮]

甕棺墓.jpg
甕棺墓

野宮06六芒星と幽玄の道

「伊勢神宮内宮」を東南に進むと「伊雑宮」を通って太平洋、その反対側西北に進むと、
順に「外宮」「斎宮」「鞍馬山」「貴船神社」「籠神社」「真名井神社」「斎宮神社」
そして日本海に出る。西北・東南ラインに一直線上に並ぶ施設は、すべてその神紋に、
六芒星を有している。南東から順に、
伊雑宮   :天照大神の御魂 裏神紋が六芒星
伊勢神宮  :天照大神 参道の石灯籠に六芒星
鞍馬山   :尊天(毘沙門天)本殿前・不動堂前の敷石に六芒星
貴船神社  :龍神 
籠神社   :龍神 神紋が六芒星の中に月と太陽
真名井神社 :龍神 マナ井(マナの壺) 神紋が六芒星
斎宮竹野神社:天照大神

「六芒星」は日本では「籠目紋」と呼ばれ、竹で編んだ籠の模様のことであり、特定の星
を指示したものではないかもしれない。しかし、、上記六芒星に関わる施設は龍神もしく
は太陽神を奉斎している。
龍は中国伝来の神で日本においては蛇信仰に習合したと思われる。蛇神→龍神
竹はその形状から蛇(=龍)を表したもの。竹+龍=籠
滝もその形状から蛇(=龍)を表したもの。?+龍=瀧
「六芒星」を日の出を待つ明けの明星に結び付けるのはそう無理な発想ではないと思う。

「六芒星」は、六角形、亀(=甕)ではないか。
甕とは口が広い入れ物である。水や穀物、遺体を入れる。甕棺墓の中の遺体はどれも膝を
折り曲げ胎児のような姿勢である。埋められた甕はまるで蛹や卵のようだ。
籠も甕も大切な命をよみがえらせる呪術だったのではないだろうか。
六芒星は死者が再び再生するためにこもる入れ物あるいは場所の印ではないか。
胎児を守る子宮、子供を孕んだ女性の腹は、甕のようにも見える。
太陽を孕む甕は、とても大きいため大甕であり、大甕は女性神であろう。

かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、鶴と亀がすべった、
後の正面だあれ
私はこの籠目歌の中にもう一つの意味が隠されていると思っている。
「籠の中の鳥」とは夜明け前の太陽
「鶴」とは火の鳥すなわち男性の太陽神、「亀」とは明けの明星すなわち女性の金星神、
「すべった」とは、太陽神としての大神(=鶴)と瀬織津姫(=亀)の統治
「後の正面」とは女性神天照大神の背後に隠された男性太陽神(伊勢大神)
背後に隠された男性太陽神(伊勢大神)の封印が解かれることを待ち望む歌でなないか。


「六芒星」とは、沈んだ太陽が再び昇るまでこもる甕であり籠であり、太陽を乗せて先
導する亀なのではないだろうか。

六芒星の神紋を持つ施設が西北ラインにまっすぐに連なって並んでいる。
東西が太陽の軸線 生命の世界、南北が北極星の軸線 宇宙の世界、西北東南は明けの
明星の軸線 甦りの呪術の世界である。

陰陽道における西北は「幽天」北は「玄天」したがって「幽玄」は北から西北にかけての
方位ということになる。真北から西北までの角度45度である。
西北すなわち乾の方位は六白金気で、その意味は、動・大始・上長・守護・首・円・車・
種子である。元々は中国思想の言葉であった「幽玄」が、和歌の世界の最高の境地を表す
言葉となり、「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし」「心にも理深く詞にも艶極ま
りぬれば、これらの徳は自ら備わるにこそ」と定義されるに至った。
「幽玄」は、その後の日本における文学や芸術における到達点とされている。

斎宮制度が始まる頃、最も清らかで最も高貴な女性が斎宮として天照大神に捧げられた。
それは太陽が甦るまでの静かな篭りの世界、霊魂が再び命を得るまでの、誕生をまつ胎児
の世界である。





野宮05斎宮と明けの明星 [野宮]

賢島 明けの明星.jpg
賢島の明けの明星

野宮05斎宮と明けの明星

伊勢神宮外宮は内宮の西北に勧請され、さらにその西北に斎宮が位置する。
斎宮は天皇にかわって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族の女性の中から選
ばれて、都から伊勢に派遣された。
斎宮制度最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘、大来皇女で、最後の斎王が、後醍
醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間継続し、60人余りの斎王の名が残され
てる。
斎王になると、宮中に定められた初斎院に入り、翌年秋に都の郊外の野宮に移り潔斎の日
々を送り身を清めました。その翌年9月に、伊勢神宮の神嘗祭に合わせて都を立ち、5泊
6日の行程で伊勢に赴いた。
天皇一代に斎王一人が原則で、その任を解かれるのは、天皇の譲位・崩御・斎王の病気、
肉親の不幸の場合に限られた。

伊勢において斎宮は、伊勢神宮から20キロ離れた斎宮寮で、寮内の斎殿を遥拝しながら
潔斎の日々を送る。年に3度の三節祭(6月・12月・神嘗祭)に限って神宮に赴き神事
に奉仕した。

「 隠された神々 吉野裕子」より抜粋
斎宮の旧祉は、多少のズレはあるが、ほぼ内宮と外宮をむすぶ線の延長線上にあり、内宮
からほぼ西北45度の地点にある。西北は「易」における「乾」であって、その象徴する
ものは、天・太陽・円・車である。
斎内親王はその任期中、斎宮にあって動かず、三節祭に限って内宮・外宮に参入すること
も記述した。斎内親王の本性は動かないことを、その特徴とするようである。
また西北は、太陽の象徴であるから、この西北の宮に常時居住する斎内親王の在り様は、
日神、天照大神の依代として、その本義にまことによく適っているといえよう。
次に西北の意味するものは、太陽ばかりでなく「天」でもある。天は天帝「太一」によ
って象徴され、この西北の宮に留まって動かない斎内親王は動かぬ神「太一」の象徴とも
受け取られる。

斎宮を「太一」の象徴とみるのには無理があると感じる。

斎宮は、伊勢内宮の東南に位置する「伊雑宮」との関係で捉えるべきだと考える。
斎宮→伊勢外宮→伊勢内宮→伊雑宮は、西北・東南南の軸線上にまっすぐに並んでいる。
斎宮にあって斎内親王が遥拝する伊勢神宮は東南の方向であり、伊勢神宮の後正面
は伊雑宮である。さらに伊雑宮の後正面には太平洋から上る太陽と太陽を迎える明けの明
星がある。伊勢内宮にあっての遥拝では、太一の真北に向かってしまう。
「伊雑宮」はその神紋が「六芒星」であることからして、まず星神に間違いない。
東南という方位を考慮すれば「北極星」でもない。「明けの明星」である。
太陽信仰の日本列島において、星神は決してメジャーな存在ではない。しかし、日の出を
待つ夜空に、ひときは強く輝く明けの明星が、特別な意味を持っていたと考えても不思議
はない。

斎宮は男性としての太陽神の神妻であり、太陽の神妻としての明星(金星)に最もふさわ
しい存在である。その斎宮が東南の方向を遥拝し、太陽の復活を祈るのは至極当然と思
われる。
斎宮、それは男性神天照大御神の皇后、瀬織津姫ではなかったか。
彼女の名は古事記にも日本書紀にも記されていない。
斎宮こそ、神妻瀬織津姫の後の姿、ではなかったか。





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