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小鍛冶01蕨手刀 [小鍛冶]

蕨手刀.jpg

秩父市HPより 蕨手刀

小鍛冶01蕨手刀

平成9年東京国立博物館は、「日本刀は蝦夷の蕨手刀が変化したもので平安中期頃に完成
した」との見解を示した。

日本列島への鉄文化の流入は、北海道東北に入った「ロシア沿岸部経由の韃靼鍛冶系」
九州・山陰に入った「中国・朝鮮半島経由の韓鍛冶系」の2系統がある。
蝦夷の蕨手刀は、アナトリアの「ヒッタイト」から草原の騎馬遊牧民族を経た「アルタイ
のアキナケス剣」が原型であると言われている。

秋田城周辺からは「アルタイのアキナケス剣」が出土している。
アキナケス剣とは主に紀元前1千年の東部地中海地方で使用されたいたタガーナイフ又は
サイフォスの一種で、長さは35~45㎝、両刃である。
起源はスキタイだが特にメディア王国、スキタイ、ペルシャ、古代ギリシャで使われた。
黒海沿岸の遊牧スキタイ、紀元前8~3世紀のウクライナのスキタイ、紀元前5~4世紀
の匈奴で使用されている。

そもそも蝦夷は、生活必需品として、刀子や蕨手刀のような小型の剣を携帯していた。
大和朝廷の成立により、700年関市令により、北辺東辺での鉄冶が禁止され、又東北へ
の武力侵攻が進む中で、蕨手刀は武器として用いられるようになりその長さを増していっ
た。奈良時代後半には戦況も激化し、坂上田村麻呂により阿弖流為が降伏し、東北は朝廷
の支配下に入った。蕨手刀は、平安初頭には、柄に空かし状の穴があいた「毛抜型蕨手刀」
に変化した。朝廷側の直刀が、鍔の装着は柄木を使い手前から行うのに対し、蕨手刀は柄
木を用いない共鉄柄のため、鍔を切っ先から装着するため、しっかりと握るため、衝撃を
吸収するために工夫されたと考えられている。
平安中期、前九年・後三年の役において朝廷側の八幡太郎義家親子と東北側の安倍貞任親
子が戦った時代には「毛抜型太刀」が用いられ始めた。「毛抜型太刀」も毛抜型・共鉄柄
・切っ先からの鍔装着である。
「毛抜型太刀」に柄木が装着されるようになり「太刀」が完成する。

日本刀が完成された平安中期、東北には「舞草鍛冶」「築山鍛冶」「玉造鍛冶」の集団が
あった。敗戦により鍛冶集団は朝廷の支配下に置かれ「俘囚」と呼ばれ、西国の特定地域
に移住させられ、移住地の鍛冶集団の成立の基礎となる。
鍛刀技術に優れた者は、大和名を与えられ律令国家の体制に組み込まれた。
源氏の宝刀「髭切りの太刀」、平家の「小烏丸」は俘囚の手による。
薩摩の「波平」の綾杉肌は奥州鍛冶の系統で西国舞草と呼ばれる。
古備前「正恒」は奥州鍛冶有正の子で、「村正」は平安城長吉の系統で、平安城長吉の父
は舞草鍛冶の長光であるから奥州鍛冶の流れである。

舞草鍛冶:岩手県一関市や平泉周辺中心に、安倍氏や東北の都平泉の需要に応じていた。
     奥州鍛冶の中心的存在
     行重・安房・森房・幡房・我里馬・鬼丸・瓦安・世安・森戸・光長・閑寂・
     国平など
月山鍛冶:出羽三山や山岳信仰を中心に諸国を従来した。室町期には山形県寒河江周辺を
     拠点
     月山・近則・鬼王丸・仏心・俊吉・軍勝など
玉造鍛冶:宮城県玉造郡周辺を中心としたため、早くから朝廷支配下に組み入れられた。
     上一丸・家則・真国・貞房・諷誦・宝寿など

蝦夷と戦った大和朝廷の兵士は大陸(中国朝鮮半島経由)系の直刀を使用していた。蝦夷
の兵士が自ら生産し、使用した蕨手刀は、馬上から斬りつけるものなので振り下ろした時
に円を描いて振り下ろせるように柄の部分が反ったものだった。刀はそれを作り用いる者
によって進化していった。
権威の象徴である朝廷は、権力の象徴である刀を我が物とする力量はなかった。
大和朝廷にとって優れた奥州鍛冶の技術は、垂涎の的であり、同時にその価値を認めるわ
けにはいかない危険な力の源泉であったのかもしれない。




橋姫07奈良の都のペルシャ人 [橋姫]

white_glass_bowl.jpg
宮内庁HPより 白瑠璃椀

橋姫07奈良の都のペルシャ人

正倉院の白瑠璃椀は、6世紀のササン朝ペルシャの王立工房で制作されたとされている。
同種のガラス器は約2000点現存するとされているが、すべてイランの古墳の土中から発見
されたもので、一度も土に埋もれる事無く美しい状態で 発見された唯一のものである。
白瑠璃椀は、ササン朝ペルシャの王が臣下や貴族に下賜するために特別に制作したもので
あった。白瑠璃椀が発見される古墳被葬者もこれに該当する。
正倉院の白瑠璃椀は、ササン朝ペルシャの王族階級によって日本に持ち込まれた可能性が
高いのではないだろうか。


642(皇極)年 ネハ―ヴァントの敗戦によりササン朝(イラン)滅亡
       ササン朝王族、遺臣らはトカーレスターンに亡命政府を作った。

654(孝徳)年 夏四月、吐火羅国の男二人、女二人、舎衛の女一人、風に会って日向に
       漂着した。

657(斉明)年 秋7月3日、都貨羅国の男二人、女四人が筑紫に漂着した。
       「私どもは始め奄美の島に漂着しました」と言った。
駅馬を使って都 (飛鳥岡本宮)へ召された。

657(斉明)年 7月15日に須弥山を象ったものを、飛鳥寺の西に作った。また、盂蘭盆会
       を行った。夕方に都貨羅人に饗を賜った。

659(斉明)年 3月10日、吐火羅の人が、妻舎衛の婦人と共にやってきた。

660(斉明)年 秋7月16日、高麗の使人乙相賀取文らは帰途についた。また、都貨羅人
       乾豆波斯達阿は、本国に帰ろうと思い、送使をお願いしたいと請い、
       「のち再び日本に来てお仕えしたいと思います。そのしるしに妻を残して
       参ります」と言った。そして十人余りのものと西海の帰途についた。

675(天武)年 春1月1日、大学寮の諸学生、陰陽寮、外薬寮および舎衛の女、堕羅の女、
       百済王善光、新羅の仕丁らが、薬や珍しい物どもを捧げ、天皇に奉った。

736(聖武)年 8月23日、遣唐副使従五位上の中臣朝臣名代ら、唐の人二人、ペルシャ人
       一人を率いて、帰国の挨拶の為天皇(聖武)に拝謁した。
       11月3日、天皇は、朝殿に臨御し、(中略)唐人の皇甫東胡、ペルシャ人
       李密翳らにはそれぞれ身分に応じて位階を授けた。

753(聖武)年 唐朝正月、玄宗皇帝との謁見式での席次が、大食(アラビア)、吐蕃(チベ
       ット)、新羅(韓国)、日本であることに、新羅はずっと昔から日本に朝貢
       している国であると抗議した。

・トカラ国について
トカーレスターン(吐火羅国、都貨羅国)は、「トカラ人の土地」を意味し、現在のアフ
ガニスタン北部、タジキスタン及びウズベキスタンに当たる。原住民のトカラ人は、イ
ラン系であったが、バクトリアと呼ばれ、アレキサンダー大王の東征によってギリシャ
文化の影響を受けた。642年アラブ軍にネハ―ヴァントの敗戦し、651年中央アジアのト
ルクメニスタンでヤズダギルド王は暗殺された。王には2人の王子と3人の王女があり、
そのうちのペーローズ(卑路斯)は群臣とともにトカレースータン山中に逃れ、王朝の再
興に望みをかけた。677年トカーレスターンにもアラブ軍が侵攻し、ペーローズは、唐に
亡命した。20年留まったその子ナルセース(泥槃師)も、708年唐に亡命した。

・トカラ人乾豆波斯達阿についての伊藤義教説
乾豆:トカーレスターンの地名クンドウス
波斯:ペルシャ人
達阿:ダルア→ダーラーイ(アケメネス朝王ダレイオスに遡る王族の名)

・舎衛婦人についての井本英一説
舎衛:トカーレスターンの地名Shawe又はSawe

・堕羅の女
堕羅=達阿=ダーラーイと舎衛婦人の間にできた娘


白瑠璃椀を携えていたペルシャ人とは、ササン朝ペルシャの王族一家
であったと思う。








橋姫06八千矛神とスセリヒメ [橋姫]

Twolovers.jpg
「 宮廷の恋人たち」 イスファハン 1630 年

橋姫06八千矛神とスセリヒメ

兄達の攻撃から逃れた大国主神は、スサノオの根の国でスサノオの娘スセリヒメに出会う。
スサノオの与える数々試練を乗り越え、スサノオの「刀」「弓矢」「琴」を奪い、二人は
駆け落ちする。やがて兄達を打ち払い宮殿をたてます。

八千矛神(大国主神)の大后スセリヒメは大変嫉妬深い方でした。
それを夫は心配して、出雲からヤマトへ出発しようとして片手を馬のくらにかけ、片足を
馬の鐙に踏み入れ、こう歌った。

ぬばたまの 黒く御衣を   まつぶさに 取り装い
沖つ鳥   胸見る時    はたたぎも これは適さず
辺つ波   そこに脱ぎ捨て 
そに鳥の  青き御衣を   まつぶさに 取り装い
沖つ鳥   胸見る時    はたたぎも これは適さず
辺つ波   そこに脱ぎ捨て
山県に   蒔きし     あたね春き
染木が汁に 染め衣を    まつぶさに 取り装い
沖つ鳥   胸見る時    はたたぎも 此し宜し
いとこやの 妹の命
群鳥の   我が群れ柱なば 引け鳥の  我が引け柱なば
泣かじとは 汝はいうとも  山処の   一本薄
項傾し   汝が泣かさまく 朝雨の   霧に立たむぞ
若草の   妻の命     事の語事も 是をば

筆者意訳
異国の姫が織った黒い御衣を着てみたが、似合わないので捨ててしまおう
異国の姫が織った青い御衣を着てみたが、似合わないので捨ててしまおう
あなたがあかね草で染めた御衣を着てみれば、とてもよく似合うのでこれを着よう
いとしい妻よ、皆と一緒に私が旅に出ても、泣かないとあなたは言うが、
きっと、山辺の一本の薄のようにうなだれて、その吐息は霧となって立つだろう
いとしい妻よ

八千矛神がこう御歌いになるとスセリヒメは大きな酒杯をとって、夫の側に立ち寄り、杯
を捧げてお歌いになった。

八千矛の  神の命や    吾が大国主
汝こそは  男に坐せば   打ち廻る  島の埼埼
かき廻る  磯の埼落ちず  若草の   妻持たせらめ
吾がはもよ 女にしあれば  
汝を除て  男はなし    汝を除て  夫はなし
綾垣の   ふはやが下に  苧衾    柔やが下に
楮衾    さやぐが下に
淡雪の   若やる胸を   楮綱の   白き腕
そだたき  たたきまながり 真玉手   玉手さし枕き
百長に   寝をし寝せ   豊御酒   奉らせ

筆者意訳
八千矛の神、大国主よ
貴方は男ですから、訪れる島々に妻がいらっしゃるのでしょう
私は女ですから、男はあなただけ、夫はあなただけ
綾の帳がゆらめく下で、柔らかな絹の上布にくるまれて、
さわやかな楮の褥の上で、淡雪のように私の白く若い胸を、
楮の白い綱のようなあなたの白い腕で、たっぷりと愛撫して
そして玉のように美しい私の手枕で、いつまでもお眠みください
この酒杯を馬上のあなたに捧げましょう

このように歌われて杯を捧げると、自らも馬上に上がり八千矛神の背に顔をうずめられ、
そののち、どこまでもお二人が離れることはなかった。
こうしてお二人の愛は永遠のものとなった。

古事記に残された、神々の甘く濃密な恋の記憶
飛鳥の石人男女像は馬上で杯を交わす大国主とスセリヒメかも。






翁09宮地嶽の翁 [翁]

筑紫舞.jpg
筑紫舞 宮地嶽神社HPより


翁09宮地嶽の翁

黄金色の王墓
福岡県福津市の宮地嶽古墳は、6世紀の築造と推定される古墳時代終末期の大型円墳で
ある。260年前、宮地嶽神社境内の宮地嶽中腹にある不動神社において発見された。
古墳直径は34メートル、横穴式石室は全長22メートル、高さ幅とも5メートルを超
大きな石を積み重ねて作られている。
金銅製馬具類、金銅荘頭椎大刀、長方形縁瑠璃板などの豪華な副葬品が、約300点出
土した。金銅製の冠には黄金に龍や虎の透かし彫りが施されている。3.2mの特大太
刀は頭椎がついており、金の装飾が施されている。金銅製の鐙は、金の七葉唐草文が貼
りつけられている。
古墳の主は、金冠をいただき、金の刀装具や馬具で身を固めた人物であり、北部九州
王であったと考えられている。被葬者は宗像一族の首長墓とされ、日本書紀673年の
記述より宗像君徳善と推定されている。

筑紫舞と九州王朝
筑紫舞は、筑紫傀儡子によって伝承された伝統芸能で、続日本書紀731年の記事にそ
の名を留めている。神舞、傀儡舞などに分類される200以上の舞が、口伝により伝承
れてきた。現在の伝承者は箏曲家菊邑検校から戦前に伝承を受けた西山村光寿斎である。
宮地嶽神社の奥宮、不動神社の横穴式石室古墳内で筑紫舞が代々舞われたいたらしい。
宮地嶽神社では現在でも、宮司や神職による筑紫舞の奉納は行われている。
傀儡子による筑紫舞は宮地嶽古墳内で続けられていたことから、古墳の発見が260年
前とすると、古墳内での傀儡子による舞は260年続けられたということになる。
古田武彦著幻の筑紫舞に、西日本新聞学芸部によれば「いや、今、こちらには『筑紫舞』
などというものは伝わっていません。それを名乗っているものは、戦後新しい流派を立
てた人のものだけです。戦前からのものは全くありません。」との記述がある。
筑紫舞という芸能が731年に存在していたのが事実として、それが現在の筑紫舞とど
のような関係があるのかないのかは不明だが、表現されている形態はまったく異なって
いるとしてもエッセンスの部分に何か痕跡が残っていても不思議ではない。

傀儡舞の翁
筑紫傀儡の菊邑検校が西山村光寿斎に伝え残した筑紫舞は、宮地嶽古墳内で舞われてい
たとすれば、260年前古墳が発見された時点で、何らかの動機をもって傀儡が舞の舞
台に古墳を選んだことになる。古墳の主に舞を捧げる必然性は何だったのだろうか?
古墳は墓であると同時に、王位の継承の儀式の舞台であったはずだ。傀儡子は木偶その
もの、またはそれを操る部族のことで、平安時代には狩りを行いながら諸国を旅する職
芸能人の集団である。人形と、そこに命を吹き込む傀儡の関係は、王の死んだ体と新
しい王の誕生を司る神職との関係に似てはいないだろうか?死と再生の呪術は、世阿弥
によって能という美学に昇華されていったのではないだろうか。能が表の歴史に咲いた
高貴な白い花ならば、傀儡舞は歴史の裏側で底辺に咲いた血の色の花なのだろう。

古田武彦 幻の筑紫舞より

資料 四夷之樂
中国の天子に対して、四辺の夷蛮は各自の舞楽を献納する習わしがあった。その中で、
東夷の舞楽を靺(パイ)又は昧(マイ)と呼ぶ。卑字である。
・中国王朝の儀礼 周囲の夷蛮は各自の舞楽を献納
・大和朝廷の儀礼 中国の模倣 隼人舞いなどの献納
・大和朝廷に先んずる九州王朝でも同じような儀礼があったと推測される
・周辺領域の舞楽を九州王朝に奉納する形式と推測される

資料 西山村光寿斎談
筑紫舞の中の一番中心になる舞に「翁」がある。「翁」は諸国の翁が集まって諸国の舞
をまうもので、
三人立ち 肥後の翁+都の翁+加賀の翁
五人立ち 肥後の翁+都の翁+加賀の翁+難波津より上がりし翁+出雲の翁
七人立ち 肥後の翁+都の翁+加賀の翁+難波津より上がりし翁+出雲の翁+
     尾張の翁+夷の翁
(古田説 都の翁の都は筑紫の中心太宰府をさしているものと推測される)

資料 筑紫舞の由来 1886(明治19)年 船越武四郎政重
明治以前には、筑紫の各神社の神官が神楽を行ってきた。明治維新により神社制度が変
わり神楽ができなくなったためその断絶を恐れ、田島八幡の社中の老が寄り集まり、平
尾邑の一本木の神官の下に出向き神楽舞の伝授を受け、以後筑紫舞として伝えることと
した。

資料 肥後国誌記述
・菊池郡の北宮で「山の能」と称する舞樂が行われ、その中心に「翁の舞楽」があった
・島津の軍隊が戦争の折、「翁面」を戦利品として持ち帰った
・戦後、隈府の能太夫藤吉雅楽が島津家に返却を求めると八代に返したと言われた
・雅楽は八代から「翁面」を返してもらった
・隅府の「山の能」の座中が「翁面」は自分たちのものであると訴訟になった
・白銀二百目の金子で訴訟が解決した
・菊池家が滅亡し、能式も滅びた

能が世阿弥の時代に完成されるずっと昔、日本という国家が誕生するときに、すでに翁
が舞われていたことを思うと、その有り難さと懐かしさに涙がこぼれるばかりである。





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