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枕慈童02 不老不死の仙薬 [枕慈童]

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竜安寺 石庭 ウィキペディア


枕慈童02 不老不死の仙薬


前221年天下統一をして2年後、秦(前259~前210)の始皇帝は、首都咸陽を
出発し、泰山に昇り封禅の儀を行った。そののち山東海岸遊行中、方士の徐福が始皇帝
に言上する。
「東海の渤海の中には蓬莱、方丈、瀛州という三神山があります、そこには種々の仙人
仙薬が全部そろっており、住まっているものは、鳥獣までが白一色で、宮殿楼閣は金銀
でできているとのことです。是非とも私共を三神山へ遣わして、仙人や仙薬を求めさせ
ていただきたい」
始皇帝は徐福の望みを聞き、金と人を与え、船を出した。そののち10年間、不老不死
の仙薬を求め船を出したが、望みかなわず50歳で亡くなった。

前漢(前156~前87)の武帝に方士李少君は言上した。
「竈の神を祀れば、神霊を招くことができ、神霊を招くことができれば、その力を借り
丹砂を化して黄金にすることができます。その黄金で食器を作って食すれば、寿命を延
ばすことができます。寿命が延びれば海中の蓬莱山中に住む仙人に合うことができます。
仙人にあってから封禅の儀を行えば、もう死ぬことはありません。」
武帝は方士たちの虚言を実行し、晩年には「神仙蓬莱庭園」を生み出す。
大液池の中に蓬莱、方丈、瀛州、壺梁の4島を築き、漸台という建物を建て、亀や魚の
形をした石組みを配した。

舟で旅立った徐福一行は、おそらくそののち日本列島に到達し、「神仙蓬莱庭園」は、
飛鳥時代に造園技術者とともに日本に伝わり、日本庭園へと発展していく。
蘇我馬子が島大臣とよばれたのは、勾(まがり)の池と呼ばれる曲線の大池に島を浮
かべていたからと言われている。庭は神仙世界の理想郷の表現であり、人が究極に欲
するものが永遠の命であったからであろう。

仙人とは山中に住み、老いる事も死ぬ事もない。水中で溺れず、火中でも焼けない。
姿を一瞬にして消し、翼で空を飛ぶ。そんな仙人になる方法論は、中国人らしい極め
て現実的かつ具体的なものである。
・長寿の動物の動きを取り入れた体操
 鶴や亀が首を伸ばしたり、手足を良く屈伸させているのは体内の障気を吐き出して
 いる
・体が滅びる様にできているのは、頭、心臓、臍下に三シ虫がいるからである。五穀
 は虫の餌となるため服餌といわれるキノコ、松の実などを食べる。
・仙薬となる薬草や鉱物は良いものが大山にあり、作薬には精進潔斎し山の力を借り、
 洞窟で行う。
・最高の仙薬である金丹は、丹砂(硫化水銀)に砒素、明礬等を加え1か月以上高温
 で精錬する。これに更に別の材料を加えると黄金になる。


不老不死を願う神仙思想は道教の思想の一つである。日本の学会では道教は日本に伝
わっていないとして、その根拠を、
淡海三舟「唐大和上東征伝」、「古事記類苑」「群書類従」に記載の「政府が道教の
伝来を拒絶した」との文言によっている。
道教及び神仙思想が日本列島にもたらされていなかったとしたら、浦島伝説、羽衣伝
説に登場する仙人はいったいどこから来たのだろうか。
「山姥」や「枕慈童」といった能は何故あるのだろう。
中国伝来の不老不死の神仙思想は、日本における特殊な精神主義に至る「道の思想」
として深化していったのではないだろうか。
それは、中国人とは違った極めてストイックで抽象的なな方法論であった。




翁14 とうとうたらり [翁]

摩多羅神.jpg
摩多羅神

翁14 とうとうたらり

・「申楽延年記」
 祇園精舎の落成式の折、釈迦の説教を妨げる邪悪な敵を弟子たちによる66番の物真似
 によって沈めたという故事に習い、聖徳太子が66番の物真似をを秦河勝に命じ、それ
 によって国は治まり人々の寿命も延びた。

・これを読んだ村上天皇は、申楽をもって天下泰平の祈祷とすべきと秦氏安に命じ、66
 番の申楽を紀権守とともに紫宸殿で演じさせた。そののち、66番は一日で演じられな
 いので、氏安がこの中から3番を選び式三番の形とした。
 秦氏安は河勝から300年後の子孫であり、河勝以来宮中の楽人となっている。

・村上天皇よりさらに300年後、御嵯峨院の時代、村上天皇の残した16章の謡い物を、
 円満家が体裁を整え「翁」とし演じたのが、現在の能の始まりとされる。

・「猿楽傳記」
 御嵯峨院の御宇に、往昔村上帝の御文庫に収め置き賜いし十六章の謡物の次第、叡聞に
 達し置きたるを思召出され、謡舞うべきものなりとて上代よりの楽人の頭人たる、大和
 円満が家の者に給ふ、
 故に音曲の鳴り物を添えて今の能を始めたり、
 この円満の家といふは、聖徳太子、倭国の音楽舞楽を定め給うとき、河勝大臣をもって、
 其事に預かしめらるるに付き、子孫へ伝えて代々樂頭たり、
 故に今円満に謡舞うべき由を迎有し、河勝大臣の時より円満猿樂の家にて、「とうとう
 たらりの翁渡し」、家に伝うるをもってその吟聲は僧家に「伽陀」という呪讃の吟聲を
 元として、写し来る所也、是太子の神道集合を始め給うによる也
 円満が是をはじめてより、前に「さし」、「次第」の分断を添え、跡に「論義」、「切
 り」謡までの文句を足し、今の一番謡と成事珍しく、・・・・・

・記録による翁の発祥
 御嵯峨院の時代、円満家が、家に伝わる「とうとうたらりの翁渡し」を、僧家に伝わる、
「伽陀」という呪讃の吟聲を元として、体裁を整えた。


翁 とうとうたらりたらりら。たらりあがりいららりどう。
地 ちりや たらりたらりら。たらりあがり ららりどう。

翁 所千代までおはしませ。
地 我らも千秋さむらはふ。
翁 鶴と亀との齢にて。
地 幸、心に任せたり。

翁 とうどうたらりたらりら。
地 ちりや たらりたらりら。たらりあがり ららりどう。

千歳 鳴るは滝の水。鳴るは滝の水、日は照るとも。
地  絶えずとうたり。ありうどうどうどう。
千歳 絶えずとうたり。常にたうたり。

・元歌と思われる風俗歌 梁塵秘抄
 滝多かれど、嬉しやとぞ思ふ、鳴る滝の水、日は照るとも絶えでとうたうやれこっとう

≪千歳舞≫

千歳 君の千年を経ん事も。
   天津乙女の羽衣よ。鳴るは滝の水、日は照るとも。
地  絶えずとうたり。ありうどうどうどう。

≪千歳舞≫

地 総角やとんどや。
翁 ひろばかりやとんどや。
地 まいらふれんげりやとんどや。
翁 千早振、神のひこさの昔より。久しかれとぞ祝ひ。
地 そよやりちや。とんどや。
翁 千年の鶴は。万才楽と歌うたり。また万代の亀は。甲に三極を備えたり。
  天下泰平国土安穏。今日のご祈祷なり。ありわらや。なじょの翁ども。
地 あれはなじょの翁ども。そやいづくの。翁ども。
翁 そよや。

・元歌と思われる催馬楽 総角の歌
 あげまきやとうとう
 ひろばかりやたうたう
 さかりてねたれども
 まろびあいにけりたうたう
 かよいあいにけりたうたう

≪翁舞≫

翁 千秋万才の。喜びの舞なれば。一舞まおう万才楽。
地 万才楽。
翁 万才楽。
地 万才楽。





翁13 火祭りの系譜 [翁]

三毬杖.jpg
三毬杖 画中川喜雲 国立国会図書館

翁13 火祭りの系譜

左義長は、小正月の1月14日の夜15日の朝に全国で広く行われる火祭りの行事である。
刈り取り後の田などに長い竹を3、4本組んでたて、そこにその年飾った門松や注連飾り
書初めで書いたものをもちより焼き、その火で焼いた餅を食べ、その灰は持ち帰り自宅の
周囲にまき厄除けとする。
門松や注連飾りによって迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味が
あるとされる。お盆の迎え火送り火と同様に、神や祖霊の依代としての炎である。

この火祭りは地方によって、とんど、とんどやき、どんと、どんとやき、どんどんやき、
さいとやきともいわれる。「とんど」も「どんと」も「さいと」も歳徳神の呼び名であり、
火祭りの神が歳徳神であると言ってよい。
歳徳神は、陰陽道でその年の福徳を司る神で、暦の多くに美しい女神として描かれている。
牛頭天皇の妃、八将軍の母「頗梨采女」、又は、牛頭天皇とスサノオの習合により、その
妃「櫛稲田姫」と言われている。仏教の普及により、それ以前の信仰の対象が仏教や陰陽
道に取り込まれる前の、歳徳神の原初の姿はどんなものだったのだろうか。

モンゴルに「オボの祭り」がある。オボとは、モンゴリア各地の山頂・水辺・境界などに
設けられた天地を祀る祭場で、ごろ石を積み上げて壇をつくり、その上に柳の枝を叢立さ
せ、又は乾草の類を積み上げたたりしたものである。自然の大木で代用することもある。
こうしたオボに毎年1回または2回、馬、牛、羊などの犠牲をそなえ、その周囲を何回か
廻って天神地祇をまつり、家内の安全と繁栄を祈って、競馬や相撲を行っている。
中国の史書の記述には匈奴の風習に竜城の祭りがある。正月、五月、九月の戌の日に諸長
が籠城、竜城と言われる材木、樹枝、柴の類を積み上げた壇をつくり国事を議し、馬を走
らせ駱駝を戦わせ神楽とした。

平安時代の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」という杖で毬をホッケーのように打
ち合うものがあり、1月15日の小正月に宮中清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖を3
本結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡い囃子ながらこれを焼く宮中行事が
あった。「故実拾要」によると、烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃を
し、ついで上下を着た大黒2人が笹の枝に白紙を切り下げた物をもち相対して囃をし、つ
いで鬼の面をかぶった童子1人が金銀で左巻きに書いた短い棒をもって舞い、ついで面を
かぶり赤い頭を被った童子2人が太鼓をもって舞い、ついで金の立烏帽子に大口袴を着て
小さい鞨鼓を前にかけ打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃
す。毬杖を3本を結ぶことから「三毬杖」と呼んだ。「三毬杖」が民間に伝わり「左義長」
に変化したものとされている。

ここで思い出されるのは、摩多羅神である。摩多羅神は烏帽子狩衣の貴人の姿で左手に小
鼓をもち打ち鳴らす姿をしている。小鼓に合わせて2人の童子が笹と茗荷をもって舞って
いる。摩多羅神は笑っており童子2人も微笑んでいる。天台宗系のお寺の常行堂の後戸に
秘められた神である。常行堂の本尊は阿弥陀如来である。平安時代の宮中行事「三毬杖」
に登場する陰陽師大黒の姿が摩多羅神に重なって見えるのは何故だろうか。
「三毬杖」の火祭りを取り仕切る陰陽師大黒は、仏教世界の摩多羅神ではなかろうか。
摩多羅神は猿楽徒の神でもある。

とんど祭りは「サエノカミサン(道祖神)の火祭り」でもある。神奈川県大磯町の左義長
では、松の内が過ぎると子供たちは正月のお飾りを集めて廻り、青年たちはセエトの材料
の末や竹を調達する。町内各所に大竹やおんべ竹を立て、町内境に注連を張り、セエノカ
ミサンの御仮屋を作り子供たちが籠る。祭り当日、集められたお飾りや縁起物は浜辺に運
ばれ燃やされる。

黒い翁の原型は、宮中の火祭り「三毬杖」の陰陽師大黒ではないだろうか。そしてさらに
宮中の火祭り「三毬杖」の原型となったのが飛鳥時代に秦氏が行っていた火を使った供儀
の儀式ではないだろうか。
道祖神(道の神)も、陰陽道の大黒も、仏教の摩多羅神も、日本の表社会から追放された
裏社会の神である。
表社会から追放されても、人々の記憶から消し去ることはできなかった国家形成の偉大な
異邦人の黒焦げの姿を見ることができるのではないだろうか。国家安泰を寿ぐための供儀
となった黒い翁の笑いは、悲しい諦めの笑みである。







翁13 飛鳥の聖火 [翁]

イラン ゾロアスター教聖火台跡.jpg
イラン ゾロアスター教聖火台跡

翁13 飛鳥の聖火

オリンピックの聖火はギリシャのオリンポス山のヘーラーの神殿跡で採火される。聖火ト
ーチへは太陽光線を一点に集中させる凹面鏡に、炉の女神ヘスティアーを祀る11人の巫
女がトーチをかざすことで火をつけている。古代ギリシャ人にとって、火はプロメテウス
が神々の元から盗んできたものと考えられる神聖なものであり、ヘスティアの祭壇で燃え
続けた。太陽光から聖なる火を採取する、つまり聖なる火は太陽の分身と言って良い。

ヘロドトスは、「ペルシャ人は天空全体をゼウス(神アフラ・マズダー)と呼んでおり、
高山に登ってゼウスに犠牲を捧げて祈るのが彼らの風習である。また、彼らは、日、月、
地、火、水を祀る」と記している。
ゾロアスター教の拝火檀は、どれも小高い岩山の山麓や頂上にあり、末広の箱型で四隅は
柱型がある。上部には火床と思しき窪みがありここで火を燃やしたと思われる。この拝火
檀が2基並んでセットになっている。一方の窪みは四角、一方の窪みは丸である。
ゾロアスター教は火を崇拝するが、火を神としてはいない。火は神を称え神に祈るための
手段に過ぎない。水がそうであるように火もまた清めの力をもつものとして神に連なるも
のであった。

飛鳥の益田岩船とゾロアスター教の拝火檀には形態に共通の性格がある。
・炉が二つでセットになっている
・山麓あるいは山頂に造られている
・屋外である

これは天上の神に供儀を捧げるための故ではないか。
天上の神に捧げる神聖な火、捧げられる供儀の受け取り手は遥か上空の神である。

聖火を守るのは特別な女性(巫女)や女装した神官であった。
飛鳥の聖火は、秦氏の女性によって守られていたはずである。
「延喜式」によれば、主殿寮の「火矩小子」の4人は「山城国葛野郡の秦氏の子孫で事に
堪える者を取り、之となす」とあり、伊勢神宮の「斎宮忌火庭火」の条には、伊勢神宮の
斎宮で新しく炊殿をつくった時、炊殿で用いる最初の火は、「山城国葛野郡の秦氏の童女
を取る」とある。
宮廷神楽においても、まず庭火を点火するが、この火も秦氏の童女が行っていた。
これは秦氏の童女の起こす火が聖なる火であり、秦氏一族が祭祀の火に深く関わっていた
ことを物語っているはずである。秦氏が宮廷祭祀から排除されたのちも、祭祀の火は秦氏
しか扱えなかったということだろう。

白い翁が太陽であれば、黒い翁は業火となって燃え盛る炎であり、秦氏が日と火の両方を
祀ることのできる特別なシャーマンであったことの記憶ではないだろうか。
黒い翁の火は白い翁の日と同じものなのだろうか?
白い翁が天上に連なる存在としたら、黒い翁の連なる先は地の底、冥界ではないだろうか。




翁12 飛鳥の弥勒 [翁]

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京都広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像

翁12 飛鳥の弥勒

ミトラ神は古代インド・イラン地域のアーリア人の神だった。「リグ・ヴェーダ」におけ
るアーディティヤ神群の一柱であり、魔術的なヴァルナ神と対をなす契約の神であった。
中央アジア(現在のアフガニスタン・パキスタン)で原始仏教と習合したのち、東方に伝
播し、弥勒信仰となって飛鳥時代の日本にやってきた。
伝播の過程で、中国の宗教的な伝統を吸収したので、弥勒はメディアやローマ帝国のミト
ラ神とは異なる性格を持つに至った。

・第1期 弥勒信仰の成立
 前2世紀~後2世紀にかけて、インド北部~イラン東部にかけての地域で、原始仏教は
 パルティア・バクトリアのミトラ教とイラン系民族のスイームルグ文化(インド+スキ
 タイ文化)の強い影響を受け、弥勒信仰が成立した。
 弥勒信仰には、仏教のミトラ教化とミトラ教の仏教化という2つの側面がある。
 仏教のミトラ教化:釈迦仏の後を継いで弥勒が現れる
 ミトラ教の仏教化:弥勒は釈迦仏の考えを継いで発展させる
 この両義性により、弥勒信仰は多くの信者を獲得した。

・第2期 浄土信仰の成立
 1世紀になると、仏教はミトラ教(ヘレニズム文化)の影響が薄まり、イラン(スイー
 ムルグ文化)の影響が強まり、救済の図式そのものが仏教に持ち込まれた。
 「大無量寿経」「阿弥陀経」
 3世紀には、ズルワーン経、グノーシス的キリスト教、仏教を集大成したマニ教(明教
 ・東方ミトラ教)が成立した。
 4~5世紀には、ササン朝ペルシャで東方ミトラ教の大習合運動の影響を受ける。
 「観無量寿経」「無量寿仏」「阿弥陀仏」「観音」「大勢至」

・第3期 密教の成立
 7世紀、北西インドで、浄土教よりさらにミトラ教の影響を受けた密教が成立した。東
 方ミトラ教の神々の体系とほぼ同じになると同時にタントリズムの影響も強く受けた。
 中央アジアの太陽神ミトラ(=ヘーリオス=アーディディヤ=スーリヤ)に、大阿修羅
 の復活が重なり、大日如来が成立したと思われる。
 ミトラと7大天使(ミトラ教)→八大明王(弥勒+7大明王)

・第4期 弥勒教の成立
 中国に渡来した東方ミトラ教(明教)は、唐~元末期(7~14世紀)に次第に中国化
 し、この過程で、仏教や道教と習合し、弥勒教となった。弥勒教は、大女神ソフィア(
 無極聖母)と弥勒を2大看板とし、明清時代には、イスラムを取り込んで五教(儒教・
 道教・仏教・キリスト教・イスラム教)帰一とした。

・弥勒信仰とは
 釈迦仏の教えは時と共に力を失い、人々の信仰は弥勒(ミトラ)に移ってゆく。
 弥勒は現在、兜率天(太陽天球層)にいて、そこで教えを説きつつ、この世に生まれ変
 わる(下生)の時を待っている。

・飛鳥時代の弥勒仏教
 飛鳥時代(592~710年)に渡来した仏教は、今の仏教と全く異なる、呪術性の強
 い弥勒信仰であった。
 弥勒信仰には、様々な呪術や祈祷が伴っていた。雨乞いと豊穣祈願の為に、聖牛の供儀
 を行った。神像(弥勒像)礼拝という偶像崇拝も行われるようになった。
 また一方で、スイームルグ文化の「よき統治」を教える神でもあった。
 弥勒は、聖徳太子、蘇我氏、秦氏といった当時の政権中枢にいた人々の神であった。
 聖徳太子は7つの寺を建て、その本堂に弥勒像を祀った。弥勒の教えである「よき統治」
 を実現するためである。蘇我一門と協力して「よき統治」を律令制度として実現した。
 「よき統治」の理念は儒教と結び付き、仏教は人々の幸福を増大する役目を担った。
 聖徳太子は死後、弥勒の代理人として神格化され、太子伝説が形成された。
 
 (参考文献 ミトラ教研究 東條真人著)

538年仏教伝来の仏教とは、のちの教典化された大乗仏教とは似ても似つかぬものでは
なかったろうか。弥勒信仰とは 末法の世に現れる救世主を渇望する信仰であり、救世主
という概念はキリスト教に近いし、聖牛の供儀はミトラ教に由来するものだろう。

日本書紀の記述が後に渡来する聖書を手掛かりに、救世主としての聖徳太子に、律令国家
の先駆けとしての政治家に脚色し、聖牛の供儀は後の仏教の殺生という概念に抵触するも
のとして歴史から抹殺されたのではないか。

飛鳥時代そのものを後の政権に都合よく書換えていたとしても、ある程度当時の人々が許
容できる範囲の脚色であり、また真実の痕跡もどこかに残っているはずである。
飛鳥の弥勒信仰に付きまとうキリスト教やミトラ教の影は、蘇我氏一族や聖徳太子一族の
出自に由来しているものと考える。






翁11 飛鳥の太陽 [翁]

幻日.jpg
アメリカ合衆国ノースダコタ州ファーゴの幻日 投稿者Gopherboy6956

翁11 飛鳥の太陽

空に3つの太陽が現れることがある。幻日である。

通常、幻日は太陽から約22度離れた太陽と同じ高度の位置に見える。雲の中に六角板
状の氷晶があり、風が弱い場合、これらの氷晶は落下の際の空気抵抗のため地面に対し
てほぼ水平に浮かぶ。氷晶の一つの側面から太陽光が入射し、一つの側面を挟んだ別の
側面から出る場合、この二つの面は60度の角をなしているため、氷晶は聴覚60度の
プリズムとして働く。
この氷晶によって屈折された太陽光は、太陽から約22度離れた位置からやってくるよ
うに見えるものが最も強くなる。このようにして見えるのが幻日である。

科学的な知識がまだない頃、3つの太陽をみたときの人々の驚きはどれほどのものだっ
ただろう。イエスもマホメットもシャカもいない世界で人は何に神を見たのだろうか。
神の声を聴く預言者が神そのものになる以前、神はどんな姿をしていたのだろうか。

3世紀前半に邪馬台国に卑弥呼が現れ鬼道を行い国々をまとめていたことが記述されて
いる。 卑弥呼は太陽を祀る巫女である。卑弥呼の太陽祭祀には魔鏡が用いられ、農耕
の伝播とともに太陽祭祀の鏡が王権の象徴として列島に拡大していった。
農耕が行われる以前、人々は狩猟採集によって命を繋いでいた。縄文貝塚からは動物の
骨が数多く発見されており、その9割は鹿と猪で、他に熊・狐・猿・兎・狸・ムササビ
・かもしか・くじらなど60種類以上の哺乳類が食べられていた。
弥生時代も狩猟による猪・鹿の肉はは多く食べられている。大陸から家畜としての豚が
さらに後期になると鶏も混入してくる。
3世紀の魏志倭人伝によれば「日本には牛馬がない」「近親者の死後10日間は肉を食
べない」とある。
3世紀前半の太陽祭祀に殺牛祭祀はまだない。

古墳時代に大陸から牛馬が渡来し、乗馬として用いられるだけでなく、牛馬は肉や内臓
が食用や薬用に使われた。又、薬猟として鹿や猪狩りが行われた。
日本書紀によれば
安寧11年 猪使連という職が現れる
雄略02年 宍人部(食肉に関わる職の家系)の起源伝承と、生肉が宍膾にして食され
      た旨、牛肉を食べるのは神事であり、生肉の保存技術がないため、生贄は
      その場で屠殺して食べられたと記述されている。
欽明16年 吉備に白猪屯倉の設置
皇極01年 雨乞いのため、村々の祝部の教えに従い牛馬を殺して諸社の神を祀る

古墳時代に大陸から渡来した牛は食肉や乳製品の加工用としての他に、祭祀の生贄とし
て、屠殺されたいた。牛馬とともに日本列島に渡来した人々は、牛を屠る宗教を信仰し
ていた、つまり古墳時代以前の日本に牛馬はいなかったのだから、牛を屠る宗教を信仰
していたのは主に渡来人ということになる。それまでに生贄の習慣があったかどうかは
別として牛馬の限っては数百年の期間に限って行われていたといえる。。
大乗仏教の導入によって生贄が殺生の禁止の対象とされ、天武天皇によって牛を含む屠
殺が禁止されるまで、行われていた殺牛祭祀とは何であったのだろうか。

675(天武)年 農耕期の肉食(牛・馬・犬・猿・鶏)禁止令
676(天武)年 放生令
737(聖武)年 禁酒・屠殺禁止令
741(聖武)年 牛馬の屠殺禁止令
752(聖武)年 殺生禁止令
758(聖武)年 殺生禁止令
791(延暦)年 伊勢・尾張・近江・紀伊・若狭・越前に殺牛祭祀の禁止
801(延暦)年 越前に殺牛祭祀の禁止

殺牛祭祀は中国でも古代から広く長く行われており、日本列島にも渡来人の牛馬と共に
伝来したものと考えられる。
渡来人の殺牛祭祀のルーツがどこまで遡ることができるかは別として、代表的渡来人と
して日本史に名を残す秦氏の宗教が殺牛祭祀であったろうと考える。秦の始皇帝時代の
徐福が歴史に残る秦氏の渡来としては最も古いが、徐福の時代には牛馬は日本にまだい
ない。何世代にも渡り秦氏と呼ばれる集団が渡来している中で殺牛祭祀を持ち込んだ秦
氏とは飛鳥時代の秦河勝ではないだろうか。
秦河勝は、新羅の中の秦王国から渡来したと考えられている。
1980年代以降に朝鮮半島で発見された石碑の碑文により、牛を殺して祭天や盟誓を
行うことが新羅における特徴的な祭祀行為であることが判明した。「鳳坪新羅碑」の、
牛を殺して天を祭る儀式、「冷水新羅碑」の、牛を殺して天に語り告げるという盟誓の
儀式が6世紀の新羅で行われていた。

飛鳥時代の宰相秦河勝を始祖とする猿楽は世阿弥によって室町時代に完成される。
翁は、能にして能にあらずといわれる特別な演目である。
翁は、秦氏の神の似姿であり、秦氏の魂の遠く長く果てしのない流浪の物語ではない
だろうか。秦河勝の祭った神は、翁の中に痕跡を残しているに違いない。

(1)白い翁 翁面は太陽神

「日本書記」によれば、607年聖徳太子が建立したといわれる法隆寺は、670年に
跡形もなく炎上したと記録されている。その後再建された現在の法隆寺の境内に隣接す
る地下から夢殿の遺跡(若草伽藍跡)が発見され、その跡が南北線より西に20度傾い
ている事が明らかになった。建物の軸線を20度西に傾ける意味は何なのか。
歴史上、冬至の太陽を祀る宗教思想に基づいて建築される時、西に20度傾く。冬至の
太陽を祀る宗教、ミトラ教である。

ミトラ神は古代インド・イランのアーリア人が共通の地域に住んでいた時代に遡る古い
神であり、ヒッタイトとミタンニの条約文の中にその神の名を捜すことができる。
ミトラ教はヘレニズム時代に地中海に入り、ローマでキリスト教が公認されるまで隆盛
を誇った。イランにおいてはミトラ教からゾロアスター教がおこり、やがてササン朝ペ
ルシャの国教となるとミトラ神は英雄神、太陽神として広く信仰される。
シルクロードのソグド商人と共に中国に伝わり「弥勒」として広まった。
キリスト教、イスラム教、仏教の源流となった宗教である。

ミトラ教を国教としていた国が紀元前250~139年に興った中央アジアの「バクト
リア」である。バクトリアは大秦国と呼ばれたギリシャ系文化の栄えた国である。
バクトリアから、ギリシャ・ローマ・スキタイなど西方異民族の傭兵軍を束ねて中国の
統一を成し遂げたのが秦の始皇帝(紀元前221~210年)である。

紀元前933~紀元前782年 「アッシリア」
紀元前625~紀元前550年 「メディア王国」
紀元前525~紀元前330年 「ペルシャ帝国」
紀元前250~紀元前139年 「バクトリア」
紀元前140~紀元後045年 「大月氏国」
紀元後045~5世紀中    「クシャン朝」


ミトラ教は死と再生を繰り返す「太陽」を神として祀る。太古の太陽神ミトラは元々三
神であった。その三神、「日の出の太陽」「天中の太陽」「日没の太陽」は、キリスト
教の「父と子と精霊」に、仏教の「仏像の脇侍」へと変化していった。

冬至の日、太陽は死にそして再び甦った。


(2)黒い翁  身を焦がし焼け落ちた太陽

ミトラ教は牡牛を屠るミトラス神を信仰する宗教である。「聖牛の供儀」は、飛鳥時代
に雨乞いの儀式として盛んに行われている。ミトラ教の供儀が何故、牛であるのかは、
ミトラ神話が形成された今から6000~4000年前、西暦期限4000~2000
年当時の星座に由来していると考えられている。当時も春分点はおうし座にあり、聖牛、
獅子、蛇が春分点を起点として天の赤道と黄道にそってならんでいる。ミトラはペルシ
ャの神と考えられていたので星座名はペルセウスである。ギリシャではアポロである。
ペルセウスの被っている帽子はフリギア帽といい、プルートーの姿かくしの兜といわれ
ている。

エピソード (ミトラ教研究 東條真人著より抜粋)
・三兄弟の約束
老クロノスは、3兄弟を呼んだ。長兄プルートーには姿隠しの兜、次男ポセイドンには、
三叉の矛、末子ゼウスには雷電を与えた。
クロノスは3兄弟に世界を配分統治させることにし、冥府をプルートーに、海をポセイ
ドンに、地上をゼウスに統治させ、天上王権はゼウスに譲った。このときゼウスは、海
神ポセイドンから生命の種子をもらい生き物をつくること、生き物には寿命を定め、寿
命がきたら冥府神プルートーのもとに送ることを約束した。プルートーは長男の自分で
なく末子ゼウスが天上王権を受け継いだことが不満であった。
・ゼウスの裏切り
ゼウスは、自分の時代を始めるにあたり、聖王ディオニソスをつくり、地上の王にした。
ディオニソスに聖牛を与えるとともに、不老不死の仙酒ソーマの作り方を教えた。
ディオニソスは、ソーマ酒を作りすべての生き物に分け与え、すべての生き物を不死に
しようとした。
・プルートーの怒り
プルートーはこれを聞き激怒した。天上王権のことで不満に思っていたところにゼウス
が約束を破ったからだ。プルートーはライオンの仮面と姿隠しの兜をつけて戦闘の準備
を整えるとゼウスの王国を攻撃した。プルートーが太陽、月、星々の光を消したので、
長い冬が訪れ、地上のすべてが死に絶えた。真っ暗な闇の中、プルートーが送り込んだ
巨人族が聖王ディオニソスを襲い八つ裂きにして食べた。ディオニソスの元にいた聖牛
は、プルートーの手下が冥府に連れ去った。世界は無人の荒野になり、闇と死と静寂に
包まれた。
・救世主ミトラ
悲嘆にくれるゼウスは、女神ニュクスも助言で、霊山にのぼり、老クロノスを訪ねた。
老クロノスは「この子に任せなさい。この子は我が化身だ。」といってミトラを紹介し
た。
・聖牛の供御
ミトラは、ゼウスから話を聞くと、プルートーが隠した聖牛を見つけ出すために稲妻と
なって地上に降りた。日輪神ソルは、日ごろミトラと張り合っていたが、クロノスに命
じられたので、カラスを使者としてミトラのもとに行かせた。ミトラはカラスの案内で
数々の苦難を乗り越えて、冥府のはずれの草地にいた聖牛を捕まえ、聖なる洞窟で供御
を執り行った。
・世界の再生
聖牛が死ぬと、大きな奇跡が起きた。白い聖牛から立ち上った光は天に昇り、太陽、月
そして星々に次々と光をともして光をよみがえらせた。その様子はまるで、闇の中に無
数の火の花が咲いたようだった。聖牛の尾と血からは麦穂とぶどうが実った。睾丸から
は聖なる種子が生まれたので、ミトラはそれをクラテールという大甕にためた。
ミトラはこの聖なる種子と四元素を混ぜて、人間を含む地上のあらゆる生き物を作り出
した。草と木々も作りだした。見る間に草が芽吹き、緑のカーペットが人広がっていっ
た。すくすくと樹木がのび、あちこちに森ができた。動物、鳥、魚、人間、陽性たちが
次々と復活し、海、山、森、草原、湖、渓谷、あらゆるところに満ち溢れた。
死の世界は生き返り、活気と喜びでいっぱいになった。


翁に救世主ミトラも聖牛も登場しない。

白い翁は、天中に白く輝いて地上に恵みをやさしく降り注ぐ。
自らの体を燃やすことで地上には光が満ち命が育まれる。

白い翁は、白く輝く太陽、そして救い主。

黒い翁は、自らの体を燃やし尽くす太陽。
燃え盛る炎は天の怒りのように地上の命を焼き尽くす。

黒い翁は、燃え尽きて地上に落ちた太陽。
黒焦げの太陽の体から、新しい命が生まれ新しい明日が始まる。

黒い翁は、焼け焦げた太陽、そして供儀としての聖牛。








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