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翁14 とうとうたらり [翁]

摩多羅神.jpg
摩多羅神

翁14 とうとうたらり

・「申楽延年記」
 祇園精舎の落成式の折、釈迦の説教を妨げる邪悪な敵を弟子たちによる66番の物真似
 によって沈めたという故事に習い、聖徳太子が66番の物真似をを秦河勝に命じ、それ
 によって国は治まり人々の寿命も延びた。

・これを読んだ村上天皇は、申楽をもって天下泰平の祈祷とすべきと秦氏安に命じ、66
 番の申楽を紀権守とともに紫宸殿で演じさせた。そののち、66番は一日で演じられな
 いので、氏安がこの中から3番を選び式三番の形とした。
 秦氏安は河勝から300年後の子孫であり、河勝以来宮中の楽人となっている。

・村上天皇よりさらに300年後、御嵯峨院の時代、村上天皇の残した16章の謡い物を、
 円満家が体裁を整え「翁」とし演じたのが、現在の能の始まりとされる。

・「猿楽傳記」
 御嵯峨院の御宇に、往昔村上帝の御文庫に収め置き賜いし十六章の謡物の次第、叡聞に
 達し置きたるを思召出され、謡舞うべきものなりとて上代よりの楽人の頭人たる、大和
 円満が家の者に給ふ、
 故に音曲の鳴り物を添えて今の能を始めたり、
 この円満の家といふは、聖徳太子、倭国の音楽舞楽を定め給うとき、河勝大臣をもって、
 其事に預かしめらるるに付き、子孫へ伝えて代々樂頭たり、
 故に今円満に謡舞うべき由を迎有し、河勝大臣の時より円満猿樂の家にて、「とうとう
 たらりの翁渡し」、家に伝うるをもってその吟聲は僧家に「伽陀」という呪讃の吟聲を
 元として、写し来る所也、是太子の神道集合を始め給うによる也
 円満が是をはじめてより、前に「さし」、「次第」の分断を添え、跡に「論義」、「切
 り」謡までの文句を足し、今の一番謡と成事珍しく、・・・・・

・記録による翁の発祥
 御嵯峨院の時代、円満家が、家に伝わる「とうとうたらりの翁渡し」を、僧家に伝わる、
「伽陀」という呪讃の吟聲を元として、体裁を整えた。


翁 とうとうたらりたらりら。たらりあがりいららりどう。
地 ちりや たらりたらりら。たらりあがり ららりどう。

翁 所千代までおはしませ。
地 我らも千秋さむらはふ。
翁 鶴と亀との齢にて。
地 幸、心に任せたり。

翁 とうどうたらりたらりら。
地 ちりや たらりたらりら。たらりあがり ららりどう。

千歳 鳴るは滝の水。鳴るは滝の水、日は照るとも。
地  絶えずとうたり。ありうどうどうどう。
千歳 絶えずとうたり。常にたうたり。

・元歌と思われる風俗歌 梁塵秘抄
 滝多かれど、嬉しやとぞ思ふ、鳴る滝の水、日は照るとも絶えでとうたうやれこっとう

≪千歳舞≫

千歳 君の千年を経ん事も。
   天津乙女の羽衣よ。鳴るは滝の水、日は照るとも。
地  絶えずとうたり。ありうどうどうどう。

≪千歳舞≫

地 総角やとんどや。
翁 ひろばかりやとんどや。
地 まいらふれんげりやとんどや。
翁 千早振、神のひこさの昔より。久しかれとぞ祝ひ。
地 そよやりちや。とんどや。
翁 千年の鶴は。万才楽と歌うたり。また万代の亀は。甲に三極を備えたり。
  天下泰平国土安穏。今日のご祈祷なり。ありわらや。なじょの翁ども。
地 あれはなじょの翁ども。そやいづくの。翁ども。
翁 そよや。

・元歌と思われる催馬楽 総角の歌
 あげまきやとうとう
 ひろばかりやたうたう
 さかりてねたれども
 まろびあいにけりたうたう
 かよいあいにけりたうたう

≪翁舞≫

翁 千秋万才の。喜びの舞なれば。一舞まおう万才楽。
地 万才楽。
翁 万才楽。
地 万才楽。





翁13 火祭りの系譜 [翁]

三毬杖.jpg
三毬杖 画中川喜雲 国立国会図書館

翁13 火祭りの系譜

左義長は、小正月の1月14日の夜15日の朝に全国で広く行われる火祭りの行事である。
刈り取り後の田などに長い竹を3、4本組んでたて、そこにその年飾った門松や注連飾り
書初めで書いたものをもちより焼き、その火で焼いた餅を食べ、その灰は持ち帰り自宅の
周囲にまき厄除けとする。
門松や注連飾りによって迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味が
あるとされる。お盆の迎え火送り火と同様に、神や祖霊の依代としての炎である。

この火祭りは地方によって、とんど、とんどやき、どんと、どんとやき、どんどんやき、
さいとやきともいわれる。「とんど」も「どんと」も「さいと」も歳徳神の呼び名であり、
火祭りの神が歳徳神であると言ってよい。
歳徳神は、陰陽道でその年の福徳を司る神で、暦の多くに美しい女神として描かれている。
牛頭天皇の妃、八将軍の母「頗梨采女」、又は、牛頭天皇とスサノオの習合により、その
妃「櫛稲田姫」と言われている。仏教の普及により、それ以前の信仰の対象が仏教や陰陽
道に取り込まれる前の、歳徳神の原初の姿はどんなものだったのだろうか。

モンゴルに「オボの祭り」がある。オボとは、モンゴリア各地の山頂・水辺・境界などに
設けられた天地を祀る祭場で、ごろ石を積み上げて壇をつくり、その上に柳の枝を叢立さ
せ、又は乾草の類を積み上げたたりしたものである。自然の大木で代用することもある。
こうしたオボに毎年1回または2回、馬、牛、羊などの犠牲をそなえ、その周囲を何回か
廻って天神地祇をまつり、家内の安全と繁栄を祈って、競馬や相撲を行っている。
中国の史書の記述には匈奴の風習に竜城の祭りがある。正月、五月、九月の戌の日に諸長
が籠城、竜城と言われる材木、樹枝、柴の類を積み上げた壇をつくり国事を議し、馬を走
らせ駱駝を戦わせ神楽とした。

平安時代の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」という杖で毬をホッケーのように打
ち合うものがあり、1月15日の小正月に宮中清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖を3
本結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡い囃子ながらこれを焼く宮中行事が
あった。「故実拾要」によると、烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃を
し、ついで上下を着た大黒2人が笹の枝に白紙を切り下げた物をもち相対して囃をし、つ
いで鬼の面をかぶった童子1人が金銀で左巻きに書いた短い棒をもって舞い、ついで面を
かぶり赤い頭を被った童子2人が太鼓をもって舞い、ついで金の立烏帽子に大口袴を着て
小さい鞨鼓を前にかけ打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃
す。毬杖を3本を結ぶことから「三毬杖」と呼んだ。「三毬杖」が民間に伝わり「左義長」
に変化したものとされている。

ここで思い出されるのは、摩多羅神である。摩多羅神は烏帽子狩衣の貴人の姿で左手に小
鼓をもち打ち鳴らす姿をしている。小鼓に合わせて2人の童子が笹と茗荷をもって舞って
いる。摩多羅神は笑っており童子2人も微笑んでいる。天台宗系のお寺の常行堂の後戸に
秘められた神である。常行堂の本尊は阿弥陀如来である。平安時代の宮中行事「三毬杖」
に登場する陰陽師大黒の姿が摩多羅神に重なって見えるのは何故だろうか。
「三毬杖」の火祭りを取り仕切る陰陽師大黒は、仏教世界の摩多羅神ではなかろうか。
摩多羅神は猿楽徒の神でもある。

とんど祭りは「サエノカミサン(道祖神)の火祭り」でもある。神奈川県大磯町の左義長
では、松の内が過ぎると子供たちは正月のお飾りを集めて廻り、青年たちはセエトの材料
の末や竹を調達する。町内各所に大竹やおんべ竹を立て、町内境に注連を張り、セエノカ
ミサンの御仮屋を作り子供たちが籠る。祭り当日、集められたお飾りや縁起物は浜辺に運
ばれ燃やされる。

黒い翁の原型は、宮中の火祭り「三毬杖」の陰陽師大黒ではないだろうか。そしてさらに
宮中の火祭り「三毬杖」の原型となったのが飛鳥時代に秦氏が行っていた火を使った供儀
の儀式ではないだろうか。
道祖神(道の神)も、陰陽道の大黒も、仏教の摩多羅神も、日本の表社会から追放された
裏社会の神である。
表社会から追放されても、人々の記憶から消し去ることはできなかった国家形成の偉大な
異邦人の黒焦げの姿を見ることができるのではないだろうか。国家安泰を寿ぐための供儀
となった黒い翁の笑いは、悲しい諦めの笑みである。







翁13 飛鳥の聖火 [翁]

イラン ゾロアスター教聖火台跡.jpg
イラン ゾロアスター教聖火台跡

翁13 飛鳥の聖火

オリンピックの聖火はギリシャのオリンポス山のヘーラーの神殿跡で採火される。聖火ト
ーチへは太陽光線を一点に集中させる凹面鏡に、炉の女神ヘスティアーを祀る11人の巫
女がトーチをかざすことで火をつけている。古代ギリシャ人にとって、火はプロメテウス
が神々の元から盗んできたものと考えられる神聖なものであり、ヘスティアの祭壇で燃え
続けた。太陽光から聖なる火を採取する、つまり聖なる火は太陽の分身と言って良い。

ヘロドトスは、「ペルシャ人は天空全体をゼウス(神アフラ・マズダー)と呼んでおり、
高山に登ってゼウスに犠牲を捧げて祈るのが彼らの風習である。また、彼らは、日、月、
地、火、水を祀る」と記している。
ゾロアスター教の拝火檀は、どれも小高い岩山の山麓や頂上にあり、末広の箱型で四隅は
柱型がある。上部には火床と思しき窪みがありここで火を燃やしたと思われる。この拝火
檀が2基並んでセットになっている。一方の窪みは四角、一方の窪みは丸である。
ゾロアスター教は火を崇拝するが、火を神としてはいない。火は神を称え神に祈るための
手段に過ぎない。水がそうであるように火もまた清めの力をもつものとして神に連なるも
のであった。

飛鳥の益田岩船とゾロアスター教の拝火檀には形態に共通の性格がある。
・炉が二つでセットになっている
・山麓あるいは山頂に造られている
・屋外である

これは天上の神に供儀を捧げるための故ではないか。
天上の神に捧げる神聖な火、捧げられる供儀の受け取り手は遥か上空の神である。

聖火を守るのは特別な女性(巫女)や女装した神官であった。
飛鳥の聖火は、秦氏の女性によって守られていたはずである。
「延喜式」によれば、主殿寮の「火矩小子」の4人は「山城国葛野郡の秦氏の子孫で事に
堪える者を取り、之となす」とあり、伊勢神宮の「斎宮忌火庭火」の条には、伊勢神宮の
斎宮で新しく炊殿をつくった時、炊殿で用いる最初の火は、「山城国葛野郡の秦氏の童女
を取る」とある。
宮廷神楽においても、まず庭火を点火するが、この火も秦氏の童女が行っていた。
これは秦氏の童女の起こす火が聖なる火であり、秦氏一族が祭祀の火に深く関わっていた
ことを物語っているはずである。秦氏が宮廷祭祀から排除されたのちも、祭祀の火は秦氏
しか扱えなかったということだろう。

白い翁が太陽であれば、黒い翁は業火となって燃え盛る炎であり、秦氏が日と火の両方を
祀ることのできる特別なシャーマンであったことの記憶ではないだろうか。
黒い翁の火は白い翁の日と同じものなのだろうか?
白い翁が天上に連なる存在としたら、黒い翁の連なる先は地の底、冥界ではないだろうか。




翁12 飛鳥の弥勒 [翁]

弥勒菩薩.jpg
京都広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像

翁12 飛鳥の弥勒

ミトラ神は古代インド・イラン地域のアーリア人の神だった。「リグ・ヴェーダ」におけ
るアーディティヤ神群の一柱であり、魔術的なヴァルナ神と対をなす契約の神であった。
中央アジア(現在のアフガニスタン・パキスタン)で原始仏教と習合したのち、東方に伝
播し、弥勒信仰となって飛鳥時代の日本にやってきた。
伝播の過程で、中国の宗教的な伝統を吸収したので、弥勒はメディアやローマ帝国のミト
ラ神とは異なる性格を持つに至った。

・第1期 弥勒信仰の成立
 前2世紀~後2世紀にかけて、インド北部~イラン東部にかけての地域で、原始仏教は
 パルティア・バクトリアのミトラ教とイラン系民族のスイームルグ文化(インド+スキ
 タイ文化)の強い影響を受け、弥勒信仰が成立した。
 弥勒信仰には、仏教のミトラ教化とミトラ教の仏教化という2つの側面がある。
 仏教のミトラ教化:釈迦仏の後を継いで弥勒が現れる
 ミトラ教の仏教化:弥勒は釈迦仏の考えを継いで発展させる
 この両義性により、弥勒信仰は多くの信者を獲得した。

・第2期 浄土信仰の成立
 1世紀になると、仏教はミトラ教(ヘレニズム文化)の影響が薄まり、イラン(スイー
 ムルグ文化)の影響が強まり、救済の図式そのものが仏教に持ち込まれた。
 「大無量寿経」「阿弥陀経」
 3世紀には、ズルワーン経、グノーシス的キリスト教、仏教を集大成したマニ教(明教
 ・東方ミトラ教)が成立した。
 4~5世紀には、ササン朝ペルシャで東方ミトラ教の大習合運動の影響を受ける。
 「観無量寿経」「無量寿仏」「阿弥陀仏」「観音」「大勢至」

・第3期 密教の成立
 7世紀、北西インドで、浄土教よりさらにミトラ教の影響を受けた密教が成立した。東
 方ミトラ教の神々の体系とほぼ同じになると同時にタントリズムの影響も強く受けた。
 中央アジアの太陽神ミトラ(=ヘーリオス=アーディディヤ=スーリヤ)に、大阿修羅
 の復活が重なり、大日如来が成立したと思われる。
 ミトラと7大天使(ミトラ教)→八大明王(弥勒+7大明王)

・第4期 弥勒教の成立
 中国に渡来した東方ミトラ教(明教)は、唐~元末期(7~14世紀)に次第に中国化
 し、この過程で、仏教や道教と習合し、弥勒教となった。弥勒教は、大女神ソフィア(
 無極聖母)と弥勒を2大看板とし、明清時代には、イスラムを取り込んで五教(儒教・
 道教・仏教・キリスト教・イスラム教)帰一とした。

・弥勒信仰とは
 釈迦仏の教えは時と共に力を失い、人々の信仰は弥勒(ミトラ)に移ってゆく。
 弥勒は現在、兜率天(太陽天球層)にいて、そこで教えを説きつつ、この世に生まれ変
 わる(下生)の時を待っている。

・飛鳥時代の弥勒仏教
 飛鳥時代(592~710年)に渡来した仏教は、今の仏教と全く異なる、呪術性の強
 い弥勒信仰であった。
 弥勒信仰には、様々な呪術や祈祷が伴っていた。雨乞いと豊穣祈願の為に、聖牛の供儀
 を行った。神像(弥勒像)礼拝という偶像崇拝も行われるようになった。
 また一方で、スイームルグ文化の「よき統治」を教える神でもあった。
 弥勒は、聖徳太子、蘇我氏、秦氏といった当時の政権中枢にいた人々の神であった。
 聖徳太子は7つの寺を建て、その本堂に弥勒像を祀った。弥勒の教えである「よき統治」
 を実現するためである。蘇我一門と協力して「よき統治」を律令制度として実現した。
 「よき統治」の理念は儒教と結び付き、仏教は人々の幸福を増大する役目を担った。
 聖徳太子は死後、弥勒の代理人として神格化され、太子伝説が形成された。
 
 (参考文献 ミトラ教研究 東條真人著)

538年仏教伝来の仏教とは、のちの教典化された大乗仏教とは似ても似つかぬものでは
なかったろうか。弥勒信仰とは 末法の世に現れる救世主を渇望する信仰であり、救世主
という概念はキリスト教に近いし、聖牛の供儀はミトラ教に由来するものだろう。

日本書紀の記述が後に渡来する聖書を手掛かりに、救世主としての聖徳太子に、律令国家
の先駆けとしての政治家に脚色し、聖牛の供儀は後の仏教の殺生という概念に抵触するも
のとして歴史から抹殺されたのではないか。

飛鳥時代そのものを後の政権に都合よく書換えていたとしても、ある程度当時の人々が許
容できる範囲の脚色であり、また真実の痕跡もどこかに残っているはずである。
飛鳥の弥勒信仰に付きまとうキリスト教やミトラ教の影は、蘇我氏一族や聖徳太子一族の
出自に由来しているものと考える。






翁11 飛鳥の太陽 [翁]

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アメリカ合衆国ノースダコタ州ファーゴの幻日 投稿者Gopherboy6956

翁11 飛鳥の太陽

空に3つの太陽が現れることがある。幻日である。

通常、幻日は太陽から約22度離れた太陽と同じ高度の位置に見える。雲の中に六角板
状の氷晶があり、風が弱い場合、これらの氷晶は落下の際の空気抵抗のため地面に対し
てほぼ水平に浮かぶ。氷晶の一つの側面から太陽光が入射し、一つの側面を挟んだ別の
側面から出る場合、この二つの面は60度の角をなしているため、氷晶は聴覚60度の
プリズムとして働く。
この氷晶によって屈折された太陽光は、太陽から約22度離れた位置からやってくるよ
うに見えるものが最も強くなる。このようにして見えるのが幻日である。

科学的な知識がまだない頃、3つの太陽をみたときの人々の驚きはどれほどのものだっ
ただろう。イエスもマホメットもシャカもいない世界で人は何に神を見たのだろうか。
神の声を聴く預言者が神そのものになる以前、神はどんな姿をしていたのだろうか。

3世紀前半に邪馬台国に卑弥呼が現れ鬼道を行い国々をまとめていたことが記述されて
いる。 卑弥呼は太陽を祀る巫女である。卑弥呼の太陽祭祀には魔鏡が用いられ、農耕
の伝播とともに太陽祭祀の鏡が王権の象徴として列島に拡大していった。
農耕が行われる以前、人々は狩猟採集によって命を繋いでいた。縄文貝塚からは動物の
骨が数多く発見されており、その9割は鹿と猪で、他に熊・狐・猿・兎・狸・ムササビ
・かもしか・くじらなど60種類以上の哺乳類が食べられていた。
弥生時代も狩猟による猪・鹿の肉はは多く食べられている。大陸から家畜としての豚が
さらに後期になると鶏も混入してくる。
3世紀の魏志倭人伝によれば「日本には牛馬がない」「近親者の死後10日間は肉を食
べない」とある。
3世紀前半の太陽祭祀に殺牛祭祀はまだない。

古墳時代に大陸から牛馬が渡来し、乗馬として用いられるだけでなく、牛馬は肉や内臓
が食用や薬用に使われた。又、薬猟として鹿や猪狩りが行われた。
日本書紀によれば
安寧11年 猪使連という職が現れる
雄略02年 宍人部(食肉に関わる職の家系)の起源伝承と、生肉が宍膾にして食され
      た旨、牛肉を食べるのは神事であり、生肉の保存技術がないため、生贄は
      その場で屠殺して食べられたと記述されている。
欽明16年 吉備に白猪屯倉の設置
皇極01年 雨乞いのため、村々の祝部の教えに従い牛馬を殺して諸社の神を祀る

古墳時代に大陸から渡来した牛は食肉や乳製品の加工用としての他に、祭祀の生贄とし
て、屠殺されたいた。牛馬とともに日本列島に渡来した人々は、牛を屠る宗教を信仰し
ていた、つまり古墳時代以前の日本に牛馬はいなかったのだから、牛を屠る宗教を信仰
していたのは主に渡来人ということになる。それまでに生贄の習慣があったかどうかは
別として牛馬の限っては数百年の期間に限って行われていたといえる。。
大乗仏教の導入によって生贄が殺生の禁止の対象とされ、天武天皇によって牛を含む屠
殺が禁止されるまで、行われていた殺牛祭祀とは何であったのだろうか。

675(天武)年 農耕期の肉食(牛・馬・犬・猿・鶏)禁止令
676(天武)年 放生令
737(聖武)年 禁酒・屠殺禁止令
741(聖武)年 牛馬の屠殺禁止令
752(聖武)年 殺生禁止令
758(聖武)年 殺生禁止令
791(延暦)年 伊勢・尾張・近江・紀伊・若狭・越前に殺牛祭祀の禁止
801(延暦)年 越前に殺牛祭祀の禁止

殺牛祭祀は中国でも古代から広く長く行われており、日本列島にも渡来人の牛馬と共に
伝来したものと考えられる。
渡来人の殺牛祭祀のルーツがどこまで遡ることができるかは別として、代表的渡来人と
して日本史に名を残す秦氏の宗教が殺牛祭祀であったろうと考える。秦の始皇帝時代の
徐福が歴史に残る秦氏の渡来としては最も古いが、徐福の時代には牛馬は日本にまだい
ない。何世代にも渡り秦氏と呼ばれる集団が渡来している中で殺牛祭祀を持ち込んだ秦
氏とは飛鳥時代の秦河勝ではないだろうか。
秦河勝は、新羅の中の秦王国から渡来したと考えられている。
1980年代以降に朝鮮半島で発見された石碑の碑文により、牛を殺して祭天や盟誓を
行うことが新羅における特徴的な祭祀行為であることが判明した。「鳳坪新羅碑」の、
牛を殺して天を祭る儀式、「冷水新羅碑」の、牛を殺して天に語り告げるという盟誓の
儀式が6世紀の新羅で行われていた。

飛鳥時代の宰相秦河勝を始祖とする猿楽は世阿弥によって室町時代に完成される。
翁は、能にして能にあらずといわれる特別な演目である。
翁は、秦氏の神の似姿であり、秦氏の魂の遠く長く果てしのない流浪の物語ではない
だろうか。秦河勝の祭った神は、翁の中に痕跡を残しているに違いない。

(1)白い翁 翁面は太陽神

「日本書記」によれば、607年聖徳太子が建立したといわれる法隆寺は、670年に
跡形もなく炎上したと記録されている。その後再建された現在の法隆寺の境内に隣接す
る地下から夢殿の遺跡(若草伽藍跡)が発見され、その跡が南北線より西に20度傾い
ている事が明らかになった。建物の軸線を20度西に傾ける意味は何なのか。
歴史上、冬至の太陽を祀る宗教思想に基づいて建築される時、西に20度傾く。冬至の
太陽を祀る宗教、ミトラ教である。

ミトラ神は古代インド・イランのアーリア人が共通の地域に住んでいた時代に遡る古い
神であり、ヒッタイトとミタンニの条約文の中にその神の名を捜すことができる。
ミトラ教はヘレニズム時代に地中海に入り、ローマでキリスト教が公認されるまで隆盛
を誇った。イランにおいてはミトラ教からゾロアスター教がおこり、やがてササン朝ペ
ルシャの国教となるとミトラ神は英雄神、太陽神として広く信仰される。
シルクロードのソグド商人と共に中国に伝わり「弥勒」として広まった。
キリスト教、イスラム教、仏教の源流となった宗教である。

ミトラ教を国教としていた国が紀元前250~139年に興った中央アジアの「バクト
リア」である。バクトリアは大秦国と呼ばれたギリシャ系文化の栄えた国である。
バクトリアから、ギリシャ・ローマ・スキタイなど西方異民族の傭兵軍を束ねて中国の
統一を成し遂げたのが秦の始皇帝(紀元前221~210年)である。

紀元前933~紀元前782年 「アッシリア」
紀元前625~紀元前550年 「メディア王国」
紀元前525~紀元前330年 「ペルシャ帝国」
紀元前250~紀元前139年 「バクトリア」
紀元前140~紀元後045年 「大月氏国」
紀元後045~5世紀中    「クシャン朝」


ミトラ教は死と再生を繰り返す「太陽」を神として祀る。太古の太陽神ミトラは元々三
神であった。その三神、「日の出の太陽」「天中の太陽」「日没の太陽」は、キリスト
教の「父と子と精霊」に、仏教の「仏像の脇侍」へと変化していった。

冬至の日、太陽は死にそして再び甦った。


(2)黒い翁  身を焦がし焼け落ちた太陽

ミトラ教は牡牛を屠るミトラス神を信仰する宗教である。「聖牛の供儀」は、飛鳥時代
に雨乞いの儀式として盛んに行われている。ミトラ教の供儀が何故、牛であるのかは、
ミトラ神話が形成された今から6000~4000年前、西暦期限4000~2000
年当時の星座に由来していると考えられている。当時も春分点はおうし座にあり、聖牛、
獅子、蛇が春分点を起点として天の赤道と黄道にそってならんでいる。ミトラはペルシ
ャの神と考えられていたので星座名はペルセウスである。ギリシャではアポロである。
ペルセウスの被っている帽子はフリギア帽といい、プルートーの姿かくしの兜といわれ
ている。

エピソード (ミトラ教研究 東條真人著より抜粋)
・三兄弟の約束
老クロノスは、3兄弟を呼んだ。長兄プルートーには姿隠しの兜、次男ポセイドンには、
三叉の矛、末子ゼウスには雷電を与えた。
クロノスは3兄弟に世界を配分統治させることにし、冥府をプルートーに、海をポセイ
ドンに、地上をゼウスに統治させ、天上王権はゼウスに譲った。このときゼウスは、海
神ポセイドンから生命の種子をもらい生き物をつくること、生き物には寿命を定め、寿
命がきたら冥府神プルートーのもとに送ることを約束した。プルートーは長男の自分で
なく末子ゼウスが天上王権を受け継いだことが不満であった。
・ゼウスの裏切り
ゼウスは、自分の時代を始めるにあたり、聖王ディオニソスをつくり、地上の王にした。
ディオニソスに聖牛を与えるとともに、不老不死の仙酒ソーマの作り方を教えた。
ディオニソスは、ソーマ酒を作りすべての生き物に分け与え、すべての生き物を不死に
しようとした。
・プルートーの怒り
プルートーはこれを聞き激怒した。天上王権のことで不満に思っていたところにゼウス
が約束を破ったからだ。プルートーはライオンの仮面と姿隠しの兜をつけて戦闘の準備
を整えるとゼウスの王国を攻撃した。プルートーが太陽、月、星々の光を消したので、
長い冬が訪れ、地上のすべてが死に絶えた。真っ暗な闇の中、プルートーが送り込んだ
巨人族が聖王ディオニソスを襲い八つ裂きにして食べた。ディオニソスの元にいた聖牛
は、プルートーの手下が冥府に連れ去った。世界は無人の荒野になり、闇と死と静寂に
包まれた。
・救世主ミトラ
悲嘆にくれるゼウスは、女神ニュクスも助言で、霊山にのぼり、老クロノスを訪ねた。
老クロノスは「この子に任せなさい。この子は我が化身だ。」といってミトラを紹介し
た。
・聖牛の供御
ミトラは、ゼウスから話を聞くと、プルートーが隠した聖牛を見つけ出すために稲妻と
なって地上に降りた。日輪神ソルは、日ごろミトラと張り合っていたが、クロノスに命
じられたので、カラスを使者としてミトラのもとに行かせた。ミトラはカラスの案内で
数々の苦難を乗り越えて、冥府のはずれの草地にいた聖牛を捕まえ、聖なる洞窟で供御
を執り行った。
・世界の再生
聖牛が死ぬと、大きな奇跡が起きた。白い聖牛から立ち上った光は天に昇り、太陽、月
そして星々に次々と光をともして光をよみがえらせた。その様子はまるで、闇の中に無
数の火の花が咲いたようだった。聖牛の尾と血からは麦穂とぶどうが実った。睾丸から
は聖なる種子が生まれたので、ミトラはそれをクラテールという大甕にためた。
ミトラはこの聖なる種子と四元素を混ぜて、人間を含む地上のあらゆる生き物を作り出
した。草と木々も作りだした。見る間に草が芽吹き、緑のカーペットが人広がっていっ
た。すくすくと樹木がのび、あちこちに森ができた。動物、鳥、魚、人間、陽性たちが
次々と復活し、海、山、森、草原、湖、渓谷、あらゆるところに満ち溢れた。
死の世界は生き返り、活気と喜びでいっぱいになった。


翁に救世主ミトラも聖牛も登場しない。

白い翁は、天中に白く輝いて地上に恵みをやさしく降り注ぐ。
自らの体を燃やすことで地上には光が満ち命が育まれる。

白い翁は、白く輝く太陽、そして救い主。

黒い翁は、自らの体を燃やし尽くす太陽。
燃え盛る炎は天の怒りのように地上の命を焼き尽くす。

黒い翁は、燃え尽きて地上に落ちた太陽。
黒焦げの太陽の体から、新しい命が生まれ新しい明日が始まる。

黒い翁は、焼け焦げた太陽、そして供儀としての聖牛。








翁09宮地嶽の翁 [翁]

筑紫舞.jpg
筑紫舞 宮地嶽神社HPより


翁09宮地嶽の翁

黄金色の王墓
福岡県福津市の宮地嶽古墳は、6世紀の築造と推定される古墳時代終末期の大型円墳で
ある。260年前、宮地嶽神社境内の宮地嶽中腹にある不動神社において発見された。
古墳直径は34メートル、横穴式石室は全長22メートル、高さ幅とも5メートルを超
大きな石を積み重ねて作られている。
金銅製馬具類、金銅荘頭椎大刀、長方形縁瑠璃板などの豪華な副葬品が、約300点出
土した。金銅製の冠には黄金に龍や虎の透かし彫りが施されている。3.2mの特大太
刀は頭椎がついており、金の装飾が施されている。金銅製の鐙は、金の七葉唐草文が貼
りつけられている。
古墳の主は、金冠をいただき、金の刀装具や馬具で身を固めた人物であり、北部九州の
王であったと考えられている。被葬者は宗像一族の首長墓とされ、日本書紀673年の
記述より宗像君徳善と推定されている。

筑紫舞と九州王朝
筑紫舞は、筑紫傀儡子によって伝承された伝統芸能で、続日本書紀731年の記事にそ
の名を留めている。神舞、傀儡舞などに分類される200以上の舞が、口伝により伝承
れてきた。現在の伝承者は箏曲家菊邑検校から戦前に伝承を受けた西山村光寿斎である。
宮地嶽神社の奥宮、不動神社の横穴式石室古墳内で筑紫舞が代々舞われたいたらしい。
宮地嶽神社では現在でも、宮司や神職による筑紫舞の奉納は行われている。
傀儡子による筑紫舞は宮地嶽古墳内で続けられていたことから、古墳の発見が260年
前とすると、古墳内での傀儡子による舞は260年続けられたということになる。
古田武彦著幻の筑紫舞に、西日本新聞学芸部によれば「いや、今、こちらには『筑紫舞』
などというものは伝わっていません。それを名乗っているものは、戦後新しい流派を立
てた人のものだけです。戦前からのものは全くありません。」との記述がある。
筑紫舞という芸能が731年に存在していたのが事実として、それが現在の筑紫舞とど
のような関係があるのかないのかは不明だが、表現されている形態はまったく異なって
いるとしてもエッセンスの部分に何か痕跡が残っていても不思議ではない。

傀儡舞の翁
筑紫傀儡の菊邑検校が西山村光寿斎に伝え残した筑紫舞は、宮地嶽古墳内で舞われてい
たとすれば、260年前古墳が発見された時点で、何らかの動機をもって傀儡が舞の舞
台に古墳を選んだことになる。古墳の主に舞を捧げる必然性は何だったのだろうか?
古墳は墓であると同時に、王位の継承の儀式の舞台であったはずだ。傀儡子は木偶その
もの、またはそれを操る部族のことで、平安時代には狩りを行いながら諸国を旅する職
業芸能人の集団である。人形と、そこに命を吹き込む傀儡の関係は、王の死んだ体と新
しい王の誕生を司る神職との関係に似てはいないだろうか?死と再生の呪術は、世阿弥
によって能という美学に昇華されていったのではないだろうか。能が表の歴史に咲いた
高貴な白い花ならば、傀儡舞は歴史の裏側で底辺に咲いた血の色の花なのだろう。

古田武彦 幻の筑紫舞より

資料 四夷之樂
中国の天子に対して、四辺の夷蛮は各自の舞楽を献納する習わしがあった。その中で、
東夷の舞楽を靺(パイ)又は昧(マイ)と呼ぶ。卑字である。
・中国王朝の儀礼 周囲の夷蛮は各自の舞楽を献納
・大和朝廷の儀礼 中国の模倣 隼人舞いなどの献納
・大和朝廷に先んずる九州王朝でも同じような儀礼があったと推測される
・周辺領域の舞楽を九州王朝に奉納する形式と推測される

資料 西山村光寿斎談
筑紫舞の中の一番中心になる舞に「翁」がある。「翁」は諸国の翁が集まって諸国の舞
をまうもので、
三人立ち 肥後の翁+都の翁+加賀の翁
五人立ち 肥後の翁+都の翁+加賀の翁+難波津より上がりし翁+出雲の翁
七人立ち 肥後の翁+都の翁+加賀の翁+難波津より上がりし翁+出雲の翁+
     尾張の翁+夷の翁
(古田説 都の翁の都は筑紫の中心太宰府をさしているものと推測される)

資料 筑紫舞の由来 1886(明治19)年 船越武四郎政重
明治以前には、筑紫の各神社の神官が神楽を行ってきた。明治維新により神社制度が変
わり神楽ができなくなったためその断絶を恐れ、田島八幡の社中の老が寄り集まり、平
尾邑の一本木の神官の下に出向き神楽舞の伝授を受け、以後筑紫舞として伝えることと
した。

資料 肥後国誌記述
・菊池郡の北宮で「山の能」と称する舞樂が行われ、その中心に「翁の舞楽」があった
・島津の軍隊が戦争の折、「翁面」を戦利品として持ち帰った
・戦後、隈府の能太夫藤吉雅楽が島津家に返却を求めると八代に返したと言われた
・雅楽は八代から「翁面」を返してもらった
・隅府の「山の能」の座中が「翁面」は自分たちのものであると訴訟になった
・白銀二百目の金子で訴訟が解決した
・菊池家が滅亡し、能式も滅びた

能が世阿弥の時代に完成されるずっと昔、日本という国家が誕生するときに、すでに翁
が舞われていたことを思うと、その有り難さと懐かしさに涙がこぼれるばかりである。





翁08草原のシャーマンと鍛冶師 [翁]

ヤズルカヤ.JPG
ヤズルカヤ(ヒッタイトの聖域) 12人の黄泉の国の神官


翁08 草原のシャーマンと鍛冶師

鉄と人類の出会いは「隕鉄」である。
紀元前3000年前のメソポタミアのウル遺跡から鉄器の断片が発見された。

隕鉄は天からの崇高な贈り物として王に帰属した。隕鉄を加工し、王剣や祭器の制作に当
たる技術者は、神聖なるものに触れる故に神事に携わる神官として特定の血族に限られた。

鉄の帝国ヒッタイトは、アナトリア(現トルコ共和国)で紀元前1650年頃誕生した。
ビュクリュカレ遺跡はアッシリアの植民地として紀元前2000年頃建設され、1650
年頃火災により焼失し、ヒッタイト帝国はその土着の文化の土台の上に築かれた。
帝国の首都はハットウシャシュ、宗教的中心はアラジャホユック(アリンナ)である。
ヒッタイトの「千の神々の民」の最高神が、太陽の女神アリンナである。
紀元前1190年頃滅亡するまで、その製鉄技術による武力によりメソポタミアを支配し
た。

特定の氏族に鉄の加工技術が蓄積されていった結果、人工鉄の製造技術が誕生した。
鉄を生み出すのは神だけとされた時代に、石塊から神聖な鉄を生み出す技術は、神の技術
であり、神に仕える鍛冶師が、神として、王になることが可能になった。
鉄を生み出す力を持つ者は、アリンナの太陽神の神託を受ける神官から、世俗的権威者で
る王へと変化した。
ルーマニアの20世紀最高の宗教学者ミルチャ.エリアーデ(1907-1986)によればアジア
ヨーロッパの広い地域で、鍛冶師が神の仕事を完成し神の名においてその仕事をするもの
として、古代の共同体においては重要な役割を占め、共同体の最初の王は、鍛冶師であっ
たという多くの例を上げている。

ヒッタイトの民族は各地へ流出して行き、製鉄技術は、ダマスカス→エルサレム、バビロ
ニア、パルティアを経て各地に伝播していく。
・西ルート
 エジプト→バクトリア(エーゲ海文明)→ローマ→ピレネー山脈(スペイン)→旧カタ
 ロニア王国【カタラン製鉄法】
・東ルート
 バーミアン、カブール、カンダハール、ペシャワールを経て2つのルート
 →現パキスタン→インド南部ウーツ→チベット→江南の夏、商、殷
 →ホータン→楼蘭、敦煌→西安→タタール
・海ルート
 チグリスユーフラテス河→紅海→インド→インドシナ→海南島

ヒッタイトの鉄技術の神髄は「鋼」であり、その鋼の技術者はほんの一握りの最高神官で
ある。彼らがその後どのような足取りをたどったのかはわからないが、再び鋼の技術が花
咲くのは日本列島である。

ヒッタイト滅亡後、その鍛冶シャーマンの文化は草原の遊牧騎馬民族国家スキタイにわた
り、スキタイからその後の中央アジアで様々に展開していった。
シベリアの諸部族において鍛冶師は特定の家系の者の秘術とされ、神職者シャーマンでも
あった。ヒッタイトの神事における祭器は、金属音を出す錫杖型のもの、鹿や牛を型どっ
たものが見つかっている。シベリアのシャーマンの服についた沢山の鉄鐸、鹿の角のつい
た兜、あるいは風の神を象徴する服についた沢山のひも状のヒラヒラ、これらはヒッタイ
トの鍛冶神官に由来していると考える。

「遊牧騎馬民族国家 護雅夫著」より

・未開社会においては鉄に異常な霊力が認められた
・北アジア、中央アジアの遊牧民族においても鉄に異常な霊力が認められた
・ブリヤートでは鍛冶の能力を持つものは神の後裔
・後世のブリヤートでは、刃物は病人に睡眠中の人を守ると考えていた
・鍛冶、鍛冶師は社会で重要な地位を占めていた
・モンゴル民族の君長、君主は鍛冶師であった
・モンゴル民族の始祖伝説 エルゲネークン山脈で鉄鉱を採掘していたところに木材
 を積みあげてそれに火をつけ、70個のふいごであおりたてて、鉱坑を爆発させ、
 その開かれた通路を通って新天地オノン、ケルレン、トラ三川の河畔に出た
・ジンギス=カンは鍛冶師であった(伝承)
・モンゴル王朝イル汗国では毎年除夜に、鍛冶師などが君主の面前で熱した鉄を鍛え、
 満廷の人士はおごそかに上天に感謝する儀礼をおこなった
・新羅の昔氏の始祖脱解王は鍛冶師であった
・突厥の阿史那氏族は「柔然の鉄工」としてアルタイ山脈南方で鍛鉄に従事していた。
 アルタイ(金)山の形は兜に似ていて、兜を「突厥」と呼んでいたので、自らを、
 「突厥」と称した

ヒッタイトを起源とする鍛冶シャーマンが日本列島に渡来していたと私は確信する。







翁07草原のシャーマンと天皇 [翁]

神職.jpg
神職
画像は日文研データベース 日本生活の図絵より

翁06草原のシャーマンと天皇

日本列島に到達した集団の中で、天孫族がいつの時代に到来したのかはわからないが、天
孫族に残る祭祀の中に出自に由来する痕跡が残ってはいないだろうか。
吸収した先住民の神話や祭祀を己の中に取り込んでいるにしても、皇統の正当性に関わる
部分、つまり即位儀礼に関してはアイデンティティを求めるのではないだろうか。
天皇家の即位儀礼の中に、遊牧民族(騎馬民族)との類似性を認める論がある。

「遊牧騎馬民族国家  護雅夫著」より抜粋

北アジアの遊牧民族は、おしなべてシャーマニズムの信者でした。
シャーマニズムにおいては、その神統は、まず、大きく、
(1)天上界にいます最高存在―最高神―を頂点として組み立てられた階層内の様々な天
の神霊、日月星辰の神霊、光明と善霊、
(2)地上界の土地・水・山・川・火などのもろもろの神霊、
(3)地下界に住む最大魔神をはじめとして、一つの階層に組み込まれた多くの鬼神霊、
暗黒と悪霊
これらに分けられます。神の子が、何かに包まれて、上天から降臨するというモチーフは
北方遊牧民族に共通する。地上の人間にとっては神霊を招ぎまつる招代であり、出現する
神霊にとっては降臨の要具であった。
「神の子を包む布」は人間と神との交融・転化の聖具であった。

・突厥の即位儀礼

その王が即位する際、その近侍・重臣共が王を「氈」にのせて、太陽が運行すると彼らが
考えた―順に―つまり、東から南へ、それから西、次いで北の順に―、九回回り、一回り
するたびごとに、臣下はみな拝する。拝し終わると、王を助けて馬に乗らせ、帛でその頸
を締め付ける。新王の呼吸がたえそうになると、手を緩め、すぐさま、かれに「なんじは
何年間、カガンとして在位できるか」ととう。王は神情が乱れていてその年数をはっきり
とは答えられない。
しかし臣下どもは、その王の答えによって、その在位年数の長短を知る。

・天皇の即位儀礼
新嘗祭は、天皇がその年の初穂を天神地祇にささげてその恩に感謝し、またこれを食する
祭り。
天皇の即位後はじめておこなわれるものを大嘗祭といいとくに重要視されている。
そして天皇の即位式は、じつはこの収穫祭を本体としたものであった。
大嘗祭の時、御殿の床に八重畳をしき、神を「衾」で覆って伏させ、天皇も「衾」を被っ
て伏し一時間ほど絶対安静の「物忌」をする。これは死という形式をとっているが、その
間に神霊が天皇の身に入り、そこではじめて天皇は霊威あるものとして復活する。
この大嘗祭(即位式)において天皇が忌こもるさいに被る「衾」こそ、日本神話に見える
真床追(覆)衾の意義をはっきり説明するものに他ならない。

・契丹の即位儀礼 柴冊儀
柴冊儀には吉日がえらばれるが、その前に柴冊殿と壇とを置く。壇は、薪を篤く積み、木
で三層につくり、その上に壇をおいて、長さ百尺の氈と、竜紋のある四角の茵とをしくの
である。さて、皇帝は再生室にはいって、再生儀をおこなう。それがおわると。長老その
ほかのものたちは、皇帝を助けて、冊殿の東北隅へ導いてゆく。皇帝は太陽を拝し、終わ
ると、馬に乗り、外戚のうちの長老を御者とする。皇帝は疾走して倒れる。御者と従者と
は、「氈」でこれをおおう。皇帝は小高い所に上り、大臣と諸部の長とは、儀仗を列して
はるかに拝する。そののち、皇帝が即位することを受諾し、終わって宴が貼られる。あく
る日、皇帝は冊殿から出て、護衛の臣にたすけられて壇に上り、祖先の神主を奉じて龍紋
のある四角の茵におく。宰相たちは群臣を率いて環状に立ち、それぞれ、皇帝のいる「氈」
のふちをもって持ち上げ、祝いの言葉を述べる。続いて、冊を読み上げ、尊号を称して皇
帝にすすめ、群臣が万歳を三唱して拝し、宴が張られて終わる。

・鮮卑の拓跋(華北に北魏を立てた)の即位儀礼
黒い「氈」で7人の人間を覆い、新しい君主は、その「氈」の上で、西方に向かって天を
拝する。

・ジンギス=カンの即位
7人の首長が、ジンギス=カンの座っている黒い「フエルト」を持ち上げた。

・カムルク族
部族の首長は、部族の一般的集会で選ばれた。この選任の結果は、選ばれた人物を、一枚
の「フエルト」の上にのせることによって知らされた。

・キルギス
新しくカンになるものを、「薄くて白いフエルトの敷物」にのせて、何度も高く放り上げ
ては落す儀式が行われた。

・南朝鮮 加羅国の建国伝説
神の子は「紅幅」につつまれて天降り、酋長我刀の家に持ち帰られて、かつ、しとねの上
におかれています。

筆者まとめ
・遊牧民族の即位儀礼と天皇家の即位儀礼には共通のモチーフがある。
・「神の子」は布に包まれたり、布の上に座っている。
・「神」は天から降臨する。(人間との水平ではなく、垂直な関係)
・北極星と北斗七星の関係を想起させる
・布のモチーフは胞衣に関係しているのではないか?(聖職者のマント)






翁06草原のシャーマンと大麻 [翁]

大麻.jpg
大麻 麻苧のみがついている。春日大社の本殿入口で参拝者が自分を祓う
画像ともウィキペディアより

翁06草原のシャーマンと大麻


「大麻と古代日本の神々  山口博著」より抜粋


斎部広成が大同二年(807年)「古語拾遺」を著した。

斎部氏とは忌部氏の後裔であり、さらにその後裔が佐々木氏である。
記紀によれば、忌部氏の祖先の太玉命は、高産土神の子で、叔母天照大神が再び天岩戸に
隠れないように注連縄を張った。天孫降臨に際してはニニギ命の従った。

①太玉命は長白羽神には麻を植えて青和幣を、天日鷲神と津昨見神には穀(コウゾ)の木
 を植えて白和幣を作らせた。麻と穀は一夜で芽生え葉が繁った。
②賢木の下枝には阿波国忌部氏の祖先である天日鷲神が作った木綿(由布)を掛けた。
③天富命(太玉命の孫)は由布津主等を連れて阿波へ、、一部は安房へ行った。

佐々木氏は「和幣」を大嘗祭に際して歴代天皇に献上してきた。
「和幣」は、南シベリアのシャーマンが大鷲の姿になった時に体につける無数のテープ状
の飾りである、現地の聖木にもテープが巻かれている。
天日鷲神とは、このシャーマンの神ではないか。

津軽半島のイタコが奉るオシラ様にはテープ状の布や紙が木の棒に巻かれている。
イタコは、ツングース語のイダコン、モンゴル語のイドカン、契丹のイドウアン、キルギ
スのドウアナと同じシャーマンを意味する。

スキタイ・マッサゲタイの麻の吸引に関するヘロドトスの記述
スキタイ・バジリク古墳からの麻を燻らす器具の出土
楼蘭の大麻草を持つシャーマンのミイラ
黒竜江沿いの漢代の遺跡
粛慎が欽明5年に佐渡で騒いだ(日本書紀)

シャーマンは幻覚剤を使用して、ヴィジョンを得、神託(天語歌)として人々に伝えた。
幻覚剤とは大麻である。麻には幻覚作用の強い亜種と弱い亜種があり、西日本の麻は弱く、
東日本の麻は強い。日本各地の遺跡から麻の種子が出土しているが、多いのは北海道、東
北・北関東にも多いが西日本は少ない。北海道に粛慎は持ち込んだかもしれない。
麻の読みAsaは、中央アジア、トルキスタンの麻の呼び名Hasha又はAsavathの語幹Asa又は
Ashaに由来する。中国語の麻の読みにAsaに近い音はない。

三国志魏書 ワイ伝 「ワイは麻を栽培する」
牡丹江流域から北朝鮮にかけて勢力を持っていたワイは、扶余・高句麗に押され、前3世
紀には北朝鮮まで縮小した。「ワイ」はスキタイ文化の伝播者であるモンゴルの「貊」を
併合している。
貊→ワイ→東日本のルートで、シャーマンが大麻を列島に持ち込んだのではないか。

筆者追記
・着物の麻の葉模様は、魔除けの模様である
・神官は麻の白衣を着用する
・神官の着物の袖口には紐が垂れ下がっている
・物部神道では幣帛、紙のぴらぴらを多用する
・能の道具には白い布が巻かれている(依代か)
・能における臣下の登場に際し、鳥の羽ばたきの様な仕草をする




翁10隠された星神シリウス [翁]

星宿図.jpg
キトラ古墳の星宿図

翁10隠された星神シリウス

天津甕星は、古事記には登場しない。日本書紀においては、経津主神武甕槌命は、服従
しない鬼神をことごとく平定したが、星神香香背男だけが服従しなかったので、倭文神
建葉槌命を遣わし懐柔したとしている。
全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。日本書紀の編纂前の皇統に
属しながら悪神とされるに相応しい人物といえば、スサノオあるいは蘇我氏だろうか。
星神として、日本書紀に名を残す唯一の神、香香背男のモデルは実在するのだろうか。

・ 金星はすべての星の中で最も光度が強い。
・国文における星の記述は、金星が最も多い。
 斎藤国治氏の「国史国文に現れる星の記憶の検証」によれば、「太白昼見=金星が昼間
 見える」の記事は、上代だけで9例、近世までの全用例を含めると58例見られる。
・金星が「天に最初に現れ最後に去るもの」であり、最後まで服従しない悪神に相応しい。

金星「太白」は天武朝の陰陽五行説の中で、悪役として名を残すことになるが、人々の記
憶からの抹殺はのがれている。
人々の記憶からその痕跡をまったく消された星がある。シリウスである。
夏至線と冬至線の好転に碁盤目上ひかれた太陽ネットワークを作り出した縄文太陽文化と
天武天皇による国体としての太陽神天照大神の誕生の間にシリウスを星神とする時代があ
った。 金星は縄文の太陽信仰に付随していたために、天照大神の世界にも残ることがで
きたが、シリウスについては、抹殺の強い意志が働いたのか、そもそも支配者階級のごく
一部の層にしかなじみがなかったためか、その後の人々の意識そしてその記憶から消えて
しまうのである。シリウスを日本に持ち込んだのは誰なのか?

キトラ古墳の天井に描かれた天空図は、高松塚古墳の精密な星宿図をしのぎ、極めて精
度の高い天文図として世界最古のものである。地平線に当たる位置に外視を丸く描き、
北極を中心とした天空の位置には内規を同心円に描いている。その間には赤道円と黄道円
が交差して描かれ春分と秋分の位置を明示している。石室西壁に描かれた白虎は中国や高
句麗古墳が南向きなのに対して北向きである。高句麗古墳の星宿図が北極と北斗七星付近
の星と二十八宿が基本となっている。星宿図の中でひときは大きく描かれているのはシリ
ウスとカノープスである。カノープスは緯度によってはまったく見えない星であり、そこ
からこの星宿図が北緯34度の付近で観測されたことがわかる。
キトラ古墳の埋葬者と、この星宿図に密接な繋がりがあったことは間違いない。

その星はローマではシリウス、ギリシャでソティス、エジプトでソプト・コプト、中国で
天狼星と呼ばれた。

真鍋大覚「儺の国の星」より、シリウスの日本名を抜粋 
・宵星、暁星
・夜門星、夜通星
・恵蘇星、与謝星、耶蘇星 :クリスマス前後に南中したため
・とよみぼし、よとみほし
・石籠星、澪標星、夷守星 :灯台のこと
・風雪星
・ふゆしらす、しらす
・阿房星、未央星
・節分星  :春夏秋冬の兆候を示す
・気分星、化粧星
・鵲裳星、石匠星
・湯面星、湯具星
・五十星、活目星、最明星 :シリウスBがAの周りを50年で公転
・一目星
・卒土星
・浮屠星

シリウスは航海にとって重要な星であったようだ。シリウス自体が灯台の役割を果たすほ
ど明るい星であり、伊豆石廊崎、三河伊良湖崎、常陸五浦などの地名に残る。
宋から元の時代(960~1368)、中国は博多津を五龍山と呼んでいた。今津から姪
浜あたりで、倭人は「いすら」と呼んでいた。異邦人の港だったために、外(袖)の湊と
呼ばれていた。水深が十分にあり、各所に石籠が一晩中焚かれていた。

中東では一年を7か月に分け1月を52日としていた。50をイカ、残り2日はタラシで
1月はイカタラシと呼んだ。エジプトでは夏至の正午を1年の中日とした。
50は神聖な数字とされていた。

皇極帝の皇極とは磁針のことである。このころから、人工の磁針を坩堝で作り鍛錬すること
が可能になっていた。和船に必ず磁石を携行するようになったのもこの頃である。

古代エジプトでは、太陽は沈むことで死に、新しい太陽が昇るまで、夜空で最も輝くシリ
ウスになると考えられ、太陽信仰と共にシリウスが信仰されていた。
そしてそのシリウスが神格化されたのが、「女神ソプデト」「女神イシス」で豊穣の神で
ある。シリウス星の出てくる方向に建てられた女神イシスの神殿では、ヘリアカルライジ
ング(太陽と同じ頃に出て同じ頃に沈む)の朝は、太陽とシリウスの光が交じり合いなが
ら神殿内に差し込んだといわれている。

日本列島に「太陽信仰の東西ライン」をもたらした天孫族、「 中国の太一思想による北
極星と北斗七星」を習合させた天武天皇、私はその二つの間にあった古墳時代から飛鳥朝
にかけての「シリウスの聖方位」を忘れてはならないと思う。
「シリウスの聖方位」は真北から西に約20°傾く軸線である。おおよそ北北西である。

「シリウスの聖方位」を軸としていると考えられる古代都市
バビロン(バビロニア)・ポンペイ(ローマ)・ペルセポリス(ペルシャ)・西安(中国)
・洛陽(中国)・斑鳩京(日本)・平安京(日本)
「シリウスの聖方位」を軸としていると考えられる古代建築
ジグラット神殿(シュメール)・バビロン神殿(バビロン)・テオティワカン太陽の神殿
(メキシコ)・法隆寺(日本)・中宮寺(日本)・発起寺(日本)・広隆寺(日本)・
四天王寺(日本)

シリウスが日本の歴史の中で意識された期間は短く、やがて人々の記憶から消えてく。
「シリウスの聖方位」北北西ラインは、陰陽五行の「天門・地門」の北西ラインに習合さ
れ、「内宮の太陽」に対して「伊雑宮の明けの明星」の背後に隠されていく。
陰陽五行の流布の中で「シリウスの聖方位」は「幽玄」へと習合されていく。
栗本慎一郎著シリウスの都飛鳥によれば、飛鳥朝はシリウスの都だった。






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