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役者の女房 [みちくさ]

咲き始めた桜に冷たい雨が降りかかる。雪の結晶を六花と呼ぶと昔誰かが教えてくれた。花はいずれもはかないものだ。役者稼業の女房なら、唯一つ、旦那の舞台を愛してくれればそれで良し。旦那に愛想が尽きようとも、その芸だけを信じてあげて欲しい。世界中が大根役者と呼ぼうとも、女房だけは千両役者と言ってあげて欲しい。そしてたった一日でも旦那より長く生きてあげて欲しい。お願いします。

銀盤の女王日韓戦を振り返る [みちくさ]

オリンピックの銀盤の女王日韓戦が盛り上がっていた頃、素人なりにあの真央ちゃんの怒涛のプログラムに不安を抱いていた。緩なしの急急急。それに比べてヨナちゃんは指鳴らしたり流し目したりしながらちゃんとお休みしているではないか。真央ちゃんみたいにやったら手足をぶんぶん回しつづけちゃ、効果なしだと思うけど。あのやたらゴージャスなタラソワコーチに対して私は不信感をぬぐえない。スピードスケートの清水広保氏が言ってだけど、生で見たヨナちゃんの演技のオーラはすごいらしい。彼も自分の持つ呼吸の力で、スタートのピストルを撃つタイミングを自分に引き寄せるとも言っていた。自分の息に周囲を取り込んでしまう力、一流と言われる人は皆それを持っていると私も思う。真央ちゃんは自分の息で演技をしていないのだ、相手ではなく自分が息つく暇もなくなってしまい、周囲を飲み込むことができなかった。それが敗因だと思う。勝負は舞台に立った瞬間に決していたのであった。勝負とはそういうものだ。勝った選手はみな「気持ちよかったあ」などと余裕で言うではないか。マラソンの高橋尚子も水泳の北島康介もへとへとにはなっていない。全力を尽くすためには、全力で戦ってはならないのだ。勝利の女神はその心と身体の空白にこそ降臨するものなのだろう。

我が良き人生 [みちくさ]

二十歳のころ、若さをむしろ持て余し、生きることを他人任せにしていた。学生生活の多くの時間を映画や芝居や美術や小説に費やし、遊んでいた。建築に出会って、人生が変わった。美しいものを理想に生きていけるような気がした。ただ建築は純粋芸術と異なり、人間の欲望と無縁ではいられない。人生の絶頂期にある人のために建築をつくり、建築もまたその人生と共に衰退していく。建築こそバブルな華の象徴だった。主は変わっても建築は残って、私の生の痕跡も残っている。それはとても幸せなこと。三十代の終わりにもう子供ができることもないだろうと思っていた頃、能に出会った。そして人生が変わっていった。私は思う。生きることは修行だ。大真面目にそう思う。結婚も仕事も生活もすべてタダタダ修行なのだ。身に降りかかる試練を「乗り越えない限り、次の境地へ決して進めないゲームなのだ。私が生かされているその意味を知るための。銀河系宇宙の中の小さな星の中の小さな私の命。能はそのことを私にそっとささやく。答えは私の中にあると。

韓氏意挙コンメンタール [みちくさ]

「全ての能力は1/100のものである」全ての能力が目的に応じて総合的に働いた結果が力である。全ての能力とは、骨格的な力のバランス、筋力、心の状態も含む全ての要素。
「髪の毛一本も武器になる」
髪の毛一本も体を構成する要素の一つであり体のバランスに関わっている。
「自然」こそ事物の本質であり
森羅万象であり、一つの事象に囚われると無限が有限になり、機能は弱まる。
「不求形骸似 担求神意足」形骸の似るを求むるにあらず、ただ神意の足るを求む。
「一具体便是錯 一用力便是錯」部分的具体的なものは誤りだ、部分的な力を使うのは誤りだ。
「能量」エネルギー・気
「不用力 不費脳」力を用いず、頭で考えるな(考えとは部分的なものである)

女性と能 [みちくさ]

素人会で能を演ずるのはもっぱら女性であり、女性能楽師も大勢になった。日本舞踊がもっぱら女性のものであり歌舞伎は完全な男性社会であるのとは違い、男女の垣根は意外に低い。舞踊家の踊りと歌舞伎役者の踊りはまったく別物といっていい。役者の踊りは芝居の断片を切り取った具象的踊りであり、舞踊家の踊りは抽象的な詩的な踊りだ。女が能をするということは、歌舞伎を女がすることのようなものなのだろうか?10年たっても、私にはそこのところがよく分からない。歌舞伎を女がしたら、もうそれは歌舞伎ではなく、新派だったり宝塚になってしまうから。能をもし女がするとしたら、やはりそれはもう能でなく別のものなんじゃないだろうか。歌舞伎の様式美は男が演じることを前提に磨かれ完成されたものだから、女が演じる場合、新派のような別の工夫を必要とする。女が男の真似をしたところで所詮はまやかしに過ぎない。もし、女性能楽師が本気で能に挑むなら、装束、型、謡い、そのすべてに男性とは違った工夫が必要だと私は思う。ただそれはもはや能ではない。

舞と踊り [みちくさ]

舞を始めてそろそろ10年になり、踊りの20年の半分まできた。あと10年で私の時計はやっと0に戻る。20年かかった型を20年かかって洗い落とす。洋服で稽古すること、音楽なしで型を学ぶこと、扇がとても華奢なこと、体の重心が前にあること、謡わなくちゃいけないこと、etc、etc。型が極端に少ない舞は、覚えることの絶対量は古典日舞よりも遥かに少ない。何もしないことがどれほど辛く困難なことか、長唄に合わせて思いっきり動ける踊りに慣れた私には身に染みる。でも、私が求めたものを捕まえることが出来る日がいつか訪れると信じてる。それは何?上手さの向こうにある世界。かたちの先に広がる世界。扉の向こうをせめて見つけられれば私のちっぽけな人生も無駄ではなかったと思える気がする。無限の宇宙に漂う一つの命、その存在の鼓動。私にとってはそれが舞。激情の嵐を包み込んだ静寂、そんな舞が私は好き。

稽古雑感 [みちくさ]

イチローが9年連続200本安打を達成した時、今後の課題を聞かれて「精神的に時々崩れますからね」ときたもんだ。36歳にして老境の粋の達してるね、能舞台に立たせたいものだ。イチローを見てレレレのおじさんを思い出す私としては好みのタイプではないのだが、偉大さを認めざるを得ない。それに比べて惨憺たる我が身を憂う。何をやっても中途半端。この先、人生どうなることやら。暑いだとか忙しいだとかの理由で水道橋の会終了後ろくに稽古もしてない。すっかり3分間イメージトレーニングの日々が常態化してしまった。師匠が気づいていないとは思えない。でも切迫感のない私。毎日同じ繰り返しの日々にイチロー君はだれないのだろうか?シカケ→ヒラキを何万回すれば上手くなるんだろうかと、考えることが間違っているのは分かってるけどさ。上手くなろうなどと考えるのがそもそも不純なわけだけど。稽古場のおじさま弟子は入門一年ですでに壁にぶち当たっているようだ。優秀な人は何でもスピードだわね。一年目なんぞアフター稽古の飲み会が超楽しいだけの私だったけど。なかなか自分を捨てるのは大変よ。全てはそっからだと思うけどね。

オバケな日々 [みちくさ]

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いったいどうして能という底なし沼に足を踏み入れてしまったのか?それって幸せだったんだろうか?人は思ってるんだろう、お上品好きな道楽者だわって。真夜中に唸り声を上げてみたり、駐車場で長刀振り回したりする変な女だと思ってるかもしれない。ま、いっか。憑き物がついてるのは事実だ。最も最近私に取り付いたのは海人族のオバケだ。ちょっと前まで猿。今は鳥。
日本はイギリスと一緒で島だったから歴史も似ている。最初がケルト、次がブリテン人、最後にサクソン人。大蛇族を出雲族が駆逐し、出雲族を天孫族が駆逐する。新しい武器と文明をもった渡来人が先住民族を征服、駆逐していく歴史。征服者が巧妙に抹殺しても名前に痕跡が残っていたりする。猿(猿田彦)とか熊(熊野)とか鹿(春日)などの動物が関わっているのが産鉄系の山の民で、新しいところでは豊臣秀吉、カラス(ヤタ烏)とか隼(隼人)とか鳩とか鴨(加茂)とか鳥が関わっているのが海の民で、たとえば信長。海の民は黒潮にのって航海してきた船乗りたちで多くの武将の祖先だ。山の民も、もとは一緒にきたのかもしれないけど、定住先の風土によってキャラクターが変化したかもしれない。弓矢か銛や矛や釣り針かいずれにしても鉄は宝だ。
隼人舞や国栖舞のように、被征服者の祭祀や神楽を征服者が勝利の証として酒の肴として楽しむという構図は、被征服者を神格化し祀ることで新政権の正当化を計る構図と同じだ。能の中で日本中のオバケがいっせいに無念を叫んでいる。だって芸能の民こそ、征服されながらその中に生き、精神の独立と自由を保ち続けた失われた王族だから。だからどれほど乞食や漁師に身をやつしても威厳と気品を保ち続けていなければならないのだろう。


明神甘酒「甘酒かき氷」 [みちくさ]

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京都の黒糖かき氷が西の横綱、お江戸の横綱は神田明神の明神甘酒の甘酒かき氷だ。酒屋が出してるみりんのかき氷も悪くはないが、なんといっても淡い、物足りない感じが江戸風なのだ。もちろん神楽坂紀の善のようなあずきの入った正統派はまた別格ではある。軽井沢で執筆中の池波正太郎(だったかな?)に延寿の甘酒
(神田明神のもうひとつの甘酒屋さん)をいつもお土産に編集者の方が買っていったそうだけど、軽井沢の天然氷で作ってみたいものだ。今年の夏は碓氷峠の竜神の湧き水を汲みに行き、コーヒーを入れてみよう。

喜多六平太談 [みちくさ]

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熊(漢字のゆう)の一種で能(のう)という獣がいるそうです。この獣はソックリ熊の形でありながら、四つの手足がない。だから熊の字の下に列火がないのであるが、その癖に物の真似がとても上手で世界中のありとあらゆるもののまねをするというのです。「能」というものは人間が形にあらわしてする物真似の不調法さやみっともなさをできるだけ避けて、その心のキレイサと品よさで、全てを現そうとするもので、その能という獣の生き方と同じ行き方だというので能と名づけたといいます。なるほど、考えてみると手や足で動作のまねをしたり、眼や口の表現で感情を現したり、背景で場面を見せたりするのは、技巧としては末の末ですからね。喜多六平太談・夢野久作「能とは何か」より
六平太恐るべし、又、夢野氏恐るべし。我が姿のあさましい我執を呪う。人間が小いせえ。
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