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聖杯と花籠 [花筐]

能のシテが手に持っているものは、象徴化された物語のエッセンスである。
花筐の場合の、後の天皇から送られた花籠(手紙がそえられている)とはいったい何のなのか?

「籠目」が悪霊を退ける。
六芒星の集合体であり、無数の目は邪悪なものを払う力を持っている。
鯉のぼりの髯籠は龍から鯉を守るためについている。
東南アジアから中国南部そして日本では竹籠を高く掲げて魔除けとする風習がある。

「髯籠」が善霊を招き寄せる。
何本もの竹を60度に交差させることによってできる無限平面は、神から授かった神聖な器である。
籠には、「入れもの」としての機能、聖なるものの依代としての機能がある。
籠目模様の入れ物→籠目模様の乗り物→異界と現世を往来する亀
風葬においては遺体を籠に入れ高木に掛けておくこともあった。
聖なる入れ物は、後世、汚いものを入れる屑籠に転落することになる。

日本の古代において、竹籠は「海人」の象徴である。
菊が皇室の象徴であるなら、竹籠は海人を象徴する。
海人は天孫以前の古代の先住民であり、天孫以降はその先住地の支配権を天孫に差出すことで、
天孫の外戚として権力の中に踏みとどまった。
つまり花籠の花は菊すなわち帝であり、妃として帝に差し出された娘は、海人の血を天孫の中に注ぎ込む
器としての籠という暗喩があるように思う。
それは、キリストの血を受けた女性を聖杯として暗喩するのを思い出す。

もし、そんな意味があるとしたら、謎の多い継体天皇の出自はともかく、
即位の裏側には海人の豪族の力や妃の存在が当時の共通認識としてあったのかもしれない。
征服者の前で舞を舞うことは服従の証しである。
照日前の舞はラブロマンスに書き換えられているけれど、継体の即位の謎に秘められた、
海人の悲劇の物語であったかもしれない。








花筐と岩倉山 [花筐]

「青眉抄・青眉抄拾遺」 上村松園 花筐と岩倉山 より抜粋

………
「お夏狂乱」などで、女人の狂い姿を見てはいるが、お夏の狂乱は「情炎」の狂い
姿であって、この花筐の中の狂い姿の様に「優雅典雅の狂い」というものは
感じない。同じ狂いの舞台姿でも、お夏と照日前の狂いにはかなり隔たりがある。
………
お夏のは全くの狂乱であり、照日前のは、君の宣旨によって「狂人を装う」狂乱
の姿なのである。そこにお夏の狂態と照日前の狂態に隔たりが見えるのでも
あろう。
………
狂人の顔は能面に近い。
狂人は表情に乏しい故であろうか、その顔は能面を見ている感じである。
嬉しい時も、悲しい時も、怒った時も大して表情は変わらないようである。
思うに「感情」の自由を失った彼らの身内に、嬉しい、哀しい、憤ろしいということも
余りないのではなかろうか。
怒ったt時は動作でそれを示しても、表情でそれを示すのは稀である。
そういうところが狂人の特徴であることに気付いた私は「花筐」における照日の前
の顔を能面から持ってきたのである。
このことは「草紙洗小町」にも用いたのであるが、狂人の顔を描くのと能面を写す
のとあまり変わらないようであった。
………
狂人の眸には不思議な光があって、その視点がいつも空虚に向けられていると
いうことが特徴であるようだが、その視線はやはり、普通の人と同様に、物を言う
相手に向けられている―少なくとも、狂人自身には対者に向けて居る視線なの
であるが、相手から見れば、その視線は横へ外れていて空虚に向けられている
如く感じるのである。
………

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