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橋姫07奈良の都のペルシャ人 [橋姫]

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宮内庁HPより 白瑠璃椀

橋姫07奈良の都のペルシャ人

正倉院の白瑠璃椀は、6世紀のササン朝ペルシャの王立工房で制作されたとされている。
同種のガラス器は約2000点現存するとされているが、すべてイランの古墳の土中から発見
されたもので、一度も土に埋もれる事無く美しい状態で 発見された唯一のものである。
白瑠璃椀は、ササン朝ペルシャの王が臣下や貴族に下賜するために特別に制作したもので
あった。白瑠璃椀が発見される古墳被葬者もこれに該当する。
正倉院の白瑠璃椀は、ササン朝ペルシャの王族階級によって日本に持ち込まれた可能性が
高いのではないだろうか。


642(皇極)年 ネハ―ヴァントの敗戦によりササン朝(イラン)滅亡
       ササン朝王族、遺臣らはトカーレスターンに亡命政府を作った。

654(孝徳)年 夏四月、吐火羅国の男二人、女二人、舎衛の女一人、風に会って日向に
       漂着した。

657(斉明)年 秋7月3日、都貨羅国の男二人、女四人が筑紫に漂着した。
       「私どもは始め奄美の島に漂着しました」と言った。
駅馬を使って都 (飛鳥岡本宮)へ召された。

657(斉明)年 7月15日に須弥山を象ったものを、飛鳥寺の西に作った。また、盂蘭盆会
       を行った。夕方に都貨羅人に饗を賜った。

659(斉明)年 3月10日、吐火羅の人が、妻舎衛の婦人と共にやってきた。

660(斉明)年 秋7月16日、高麗の使人乙相賀取文らは帰途についた。また、都貨羅人
       乾豆波斯達阿は、本国に帰ろうと思い、送使をお願いしたいと請い、
       「のち再び日本に来てお仕えしたいと思います。そのしるしに妻を残して
       参ります」と言った。そして十人余りのものと西海の帰途についた。

675(天武)年 春1月1日、大学寮の諸学生、陰陽寮、外薬寮および舎衛の女、堕羅の女、
       百済王善光、新羅の仕丁らが、薬や珍しい物どもを捧げ、天皇に奉った。

736(聖武)年 8月23日、遣唐副使従五位上の中臣朝臣名代ら、唐の人二人、ペルシャ人
       一人を率いて、帰国の挨拶の為天皇(聖武)に拝謁した。
       11月3日、天皇は、朝殿に臨御し、(中略)唐人の皇甫東胡、ペルシャ人
       李密翳らにはそれぞれ身分に応じて位階を授けた。

753(聖武)年 唐朝正月、玄宗皇帝との謁見式での席次が、大食(アラビア)、吐蕃(チベ
       ット)、新羅(韓国)、日本であることに、新羅はずっと昔から日本に朝貢
       している国であると抗議した。

・トカラ国について
トカーレスターン(吐火羅国、都貨羅国)は、「トカラ人の土地」を意味し、現在のアフ
ガニスタン北部、タジキスタン及びウズベキスタンに当たる。原住民のトカラ人は、イ
ラン系であったが、バクトリアと呼ばれ、アレキサンダー大王の東征によってギリシャ
文化の影響を受けた。642年アラブ軍にネハ―ヴァントの敗戦し、651年中央アジアのト
ルクメニスタンでヤズダギルド王は暗殺された。王には2人の王子と3人の王女があり、
そのうちのペーローズ(卑路斯)は群臣とともにトカレースータン山中に逃れ、王朝の再
興に望みをかけた。677年トカーレスターンにもアラブ軍が侵攻し、ペーローズは、唐に
亡命した。20年留まったその子ナルセース(泥槃師)も、708年唐に亡命した。

・トカラ人乾豆波斯達阿についての伊藤義教説
乾豆:トカーレスターンの地名クンドウス
波斯:ペルシャ人
達阿:ダルア→ダーラーイ(アケメネス朝王ダレイオスに遡る王族の名)

・舎衛婦人についての井本英一説
舎衛:トカーレスターンの地名Shawe又はSawe

・堕羅の女
堕羅=達阿=ダーラーイと舎衛婦人の間にできた娘


白瑠璃椀を携えていたペルシャ人とは、ササン朝ペルシャの王族一家
であったと思う。








橋姫06八千矛神とスセリヒメ [橋姫]

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「 宮廷の恋人たち」 イスファハン 1630 年

橋姫06八千矛神とスセリヒメ

兄達の攻撃から逃れた大国主神は、スサノオの根の国でスサノオの娘スセリヒメに出会う。
スサノオの与える数々試練を乗り越え、スサノオの「刀」「弓矢」「琴」を奪い、二人は
駆け落ちする。やがて兄達を打ち払い宮殿をたてます。

八千矛神(大国主神)の大后スセリヒメは大変嫉妬深い方でした。
それを夫は心配して、出雲からヤマトへ出発しようとして片手を馬のくらにかけ、片足を
馬の鐙に踏み入れ、こう歌った。

ぬばたまの 黒く御衣を   まつぶさに 取り装い
沖つ鳥   胸見る時    はたたぎも これは適さず
辺つ波   そこに脱ぎ捨て 
そに鳥の  青き御衣を   まつぶさに 取り装い
沖つ鳥   胸見る時    はたたぎも これは適さず
辺つ波   そこに脱ぎ捨て
山県に   蒔きし     あたね春き
染木が汁に 染め衣を    まつぶさに 取り装い
沖つ鳥   胸見る時    はたたぎも 此し宜し
いとこやの 妹の命
群鳥の   我が群れ柱なば 引け鳥の  我が引け柱なば
泣かじとは 汝はいうとも  山処の   一本薄
項傾し   汝が泣かさまく 朝雨の   霧に立たむぞ
若草の   妻の命     事の語事も 是をば

筆者意訳
異国の姫が織った黒い御衣を着てみたが、似合わないので捨ててしまおう
異国の姫が織った青い御衣を着てみたが、似合わないので捨ててしまおう
あなたがあかね草で染めた御衣を着てみれば、とてもよく似合うのでこれを着よう
いとしい妻よ、皆と一緒に私が旅に出ても、泣かないとあなたは言うが、
きっと、山辺の一本の薄のようにうなだれて、その吐息は霧となって立つだろう
いとしい妻よ

八千矛神がこう御歌いになるとスセリヒメは大きな酒杯をとって、夫の側に立ち寄り、杯
を捧げてお歌いになった。

八千矛の  神の命や    吾が大国主
汝こそは  男に坐せば   打ち廻る  島の埼埼
かき廻る  磯の埼落ちず  若草の   妻持たせらめ
吾がはもよ 女にしあれば  
汝を除て  男はなし    汝を除て  夫はなし
綾垣の   ふはやが下に  苧衾    柔やが下に
楮衾    さやぐが下に
淡雪の   若やる胸を   楮綱の   白き腕
そだたき  たたきまながり 真玉手   玉手さし枕き
百長に   寝をし寝せ   豊御酒   奉らせ

筆者意訳
八千矛の神、大国主よ
貴方は男ですから、訪れる島々に妻がいらっしゃるのでしょう
私は女ですから、男はあなただけ、夫はあなただけ
綾の帳がゆらめく下で、柔らかな絹の上布にくるまれて、
さわやかな楮の褥の上で、淡雪のように私の白く若い胸を、
楮の白い綱のようなあなたの白い腕で、たっぷりと愛撫して
そして玉のように美しい私の手枕で、いつまでもお眠みください
この酒杯を馬上のあなたに捧げましょう

このように歌われて杯を捧げると、自らも馬上に上がり八千矛神の背に顔をうずめられ、
そののち、どこまでもお二人が離れることはなかった。
こうしてお二人の愛は永遠のものとなった。

古事記に残された、神々の甘く濃密な恋の記憶
飛鳥の石人男女像は馬上で杯を交わす大国主とスセリヒメかも。






橋姫05橋姫降臨 [橋姫]

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能面 橋姫

橋姫05橋姫降臨

日本語は、外来文化を吸収するときに、その名前を言語に忠実な音として残す傾向がある
らしい。現代はもっぱら英語がそのまま日本語の中に取り入れられ、カタカナだらけにな
っても案外平気である。そもそもカタカナがユダヤ語に共通点が多く、古代アラブ語が元
になっている可能性もある。新しい文化を新しい言葉と共に受する過程を楽しむとき、
私はそれが枕詞であったり、ダジャレのような言葉遊びになったのではないかと思ってい
る。説明としての枕詞、音が同じで意味が違う言葉の遊び、そして同じ音であるのに意味
が違うものは、本来何らかの関係があったのではないかと思っている。

「橋」「箸」「端」、この三つの「ハシ」は、「波斯」すなわち「ペルシャ=大秦」から
由来したものではないか。「ハシとは」麻薬を意味するhasshishiの「ハシ」である。
当時の日本人が、どの程度諸外国のことを知識としてもっていたかわからないが、少なか
らず、「ハシヒト=波斯人」を自認する民族が日本にいて、新しい文化文明を日本にもた
らしていたということは確かだ。「胡椒」「胡瓜」「胡坐」胡がつく名前は、みんなペル
シャから日本へ伝わったものだ。当時の先進国は中国でなくペルシャだったのだから。
「橋」「箸」「端」に共通する概念はなにか?私は「対」の概念ではないかと感じている。
もっとも直接的に橋を造る技術を教え、箸を伝えたのが、遥か遠くの端から来た波斯人で
あったからかもしれないが、それなら名称に胡がついていたほうが自然だ。
彼岸と此岸を結ぶ「橋」、2本そろって初めて機能する「箸」、相手の存在によって生じ
る間として距離としての「端」、この「対」の概念をもたらしたのでがハシ人の宗教観で
あり、日本人がであった最初の二元論だったのではないだろうか。
のちの陰陽道に日本独自の展開をしていったのだと思う。

古来、日本では大きな橋の袂に、石像の男女二神、双体道祖神を祀っていた。道の神同様
外から侵入してくる外敵や邪悪なものを退ける守護神である。その女神が「橋姫」である。
宇治川の宇治の橋姫、大阪市淀川の長柄橋、滋賀県瀬田川の唐橋などが有名である。
「ハシ姫」は、もともと「波斯姫」だったのではないか、つまり男女二神の女神はもとも
と「波斯姫」と呼ばれ、それは橋の袂だけでなく、道端にも男女ペアで仲睦まじく祀られ
ていたものが、いつのまにか二人は彼岸と此岸に隔てられ、古今和歌集の頃は愛らしい乙
女として描かれていた「橋姫」が、平家物語のころから、嫉妬に狂う恐ろしい悪鬼に変貌
していく。

「橋姫」は能の物語の中で特別なキャラクターとして、復活する。
橋姫の面を使用する能に「鉄輪」がある。嫉妬に狂った女が、相手の女を取り殺すために
明神に祈願し、神の神託により、神を5つに分け角とし、顔に朱、体に丹を塗り、松明を
付けた鉄輪をかぶり、両端を燃やした松明をくわえて21日間宇治川に浸り鬼になった。
この橋姫が行った呪いの儀式が丑の刻参りである。能では安倍清明に撃退されてしまう
悲しく恐ろしい物語だ。
彼女の身に着ける、鉄輪・火・朱・丹は彼女の出自を物語る重要なメタファーだ。鉄も朱
も丹も貴重な鉱物資源であり、特殊な技術をもった特別な民にしか扱えない、秦氏だ。
藤原氏によって、蘇我氏と共に歴史の表舞台から抹殺された秦氏が、平安の世に降臨させ
た鬼神、それが変わり果てた姿の悲しい女「波斯姫」ではなかったか。




橋姫04飛鳥の石神 [橋姫]

石神男女像.jpg
石神男女像

橋姫04飛鳥の石神

奈良の飛鳥資料館にある石人男女像は、異国人(ペルシャ系か)風の風貌の男女が抱き合
っている双体の石像である。二人の口は噴水となって水を吹いている。
顔・抱き合う姿・乾燥地帯を思わせる噴水、あまりに非日本的である。

「ユーラシアの石人 林俊雄著」より抜粋
一方ユーラシア東部では石像の出現はやや遅れる。
前1500年前後に、イエニセイ川中流域に限定してユニークな石像が現れる。
前1000年より少し後に現れた鹿石は分布範囲がかなり広く、黒海沿岸まで伝わったら
しい。
その後またしばらく中断してテュルク時代に石人が登場する。
それは初めて特定の個人を表現したものであった。モンゴル高原では、小規模な遺跡には
そこに葬られたかあるいは祀られた死者本人の像が一体立てられるだけだが、可汗とそれ
に次ぐクラスの遺跡では本人のほかにその妻、さらに臣下の石像が置かれた。この起源と
展開については、まずただの立石であったバルバルが粗雑ながらも人間像となり、ついで
中国からの影響のもとに臣下を像として立てるようになり、そして最後に祀られる本人
(とその妻)の像が置かれるようになったと考えるべきであろう。
それでは死者本人の像の起源はどうであろうか。中国には死者本人を像にあらわす風習は
ない。この起源については、ユーラシア西部に断続的に伝わる石像が再び現れたのか、
それともソグド人からの影響であろうか。
現段階では、突厥の直前に草原地帯に石像がなく、また石人がイラン・ソグド風に容器を
持つこと、モンゴル高原には第一突厥期の石人はないが、西方の天山山中には第一突厥期
の石人があることを考慮すると、中央アジアのソグド人のからの影響と考えたくなるが、
固源の漆画や西安の安伽慕の壁画が影響を与えた可能性もある。
いずれにしても突厥は東西の文化を選択的に、あるいは意図的にか誤解の故か違った解釈
で取り入れ、自分たちの文化に融合させたのである。
石人を立てる風習は突厥の滅亡後、モンゴル高原では廃れていったが、西方ではやや形を
変えて存続した。

日本各地に残る男女の双体道祖神と似たものにシュメールの石人男女像がある。
道祖神とは、サエノカミ(塞の神)、ドウロクジン(道陸神)、フナドノカミ(岐神)と
も呼ばれ、村の領域に置かれて外部から侵入する邪霊・悪鬼・疫神などを遮る民族神であ
る。陰陽石や丸石などの自然石の他、男女二神の結び合う姿のものを双体道祖神という。
道祖神の神体が性器だからであり、日本古代より性器の霊力が重んじられていたかららし
い。

飛鳥の石人男女像は、猿田彦と天宇受売命(猿女君)がモデルではないだろうか。
猿田彦と天宇受売命(猿女君)は神話の世界でなく、飛鳥での出来事だったのではないか。
「猿」「天狗」に共通する異形の面は ペルシャ系ソグド人商人ではなかったか。
九州王朝は、秦氏(猿田彦)によって飛鳥に導かれたのではないか。
そしてその石人男女像が置かれていたのは、猿田彦たる秦河勝の館ではなかったろうか。
「男女の交わり」で、二つの集団、二つの国が統一されることを象徴させ、それは国産み
として、天宇受売命(日の巫女)のシャーマニズムの終焉を語っているのではないか。
秦氏によってもたらされた新技術(機織り・畑作・酒造り・金工等々)が国内に広まるに
つれ、秦氏が奉じる宗教も同時に広まっていったのではないか。
その宗教がどのようなものであったかはわからないが、性と聖がとても近いものであった
のではないだろうか。そしてそれはシャーマニズムの機能する時代から、律法の世界に移
行する過程で、社会と折り合わないものになってしまったのではないだろうか。
飛鳥はシャーマニズムの最後の時代であったのだろう。
イザナギとイザナミ、猿田彦と天宇受売命、神功皇后と竹内宿祢、男女の交わりは、日本
の国づくりに関わる聖なる神事であった。にもかかわらず、仏教の広まるにつれ、血は穢
れとなり、性は淫らなものとして暗い場所に封印されていったのではないだろうか。
蘇我氏に従属する形の技術集団であった秦氏は、蘇我氏が仏教を政治に取り込むことによ
って、自らの奉ずる神を仏の後戸に、自らの手によって封印したのかもしれない。




橋姫03飛鳥の火祭り [橋姫]

益田岩船.jpg
益田岩船

橋姫03 飛鳥の火祭り

かつて、「オクドサン」「ヘッツイ」と呼ばれていた日本の伝統的「竈」には、神棚
や幣束・神札が祀られていた。千年後、ガスコンロやIHクッキングヒーターに替わ
っていても、火の用心もかねてか、「荒神様」が祀られているキッチンが存続してい
る。仏教では「三宝荒神」、神道では「竈三柱神」奥津日子神と 奥津比売命の竈神、
カグツチが火の神で、三柱である。
竈神は、影や裏側の領域、霊界異界との境界で双方を媒介する神、祟り神とされてい
る。

日本国中に火祭りは行われており、青森のねぷた、秋田の竿灯、京都五山の送り火、
鞍馬の火祭、東大寺二月堂の修二会、阿蘇の火振り神事、などなど沢山である。
「左義長」は「どんとやき」とも言い、全国で小正月に行われる。
門松や注連飾りを焼くことで、出迎えた歳神を見送る意味があるらしい。
「賽の神祭り」「塞の神祭り」「道祖神の火祭り」とも呼ぶ。

火を神聖視する文化はどこからもたらされたのだろう。縄文の火炎土器に始まる、火
の中に神を見る心性が、日本の神道・仏教・風俗・祭りを横切る形で確立され、継承
される原因が過去の日本の歴史のどこかに封印されているのではなかろうか。

「光」の象徴=善=アフラ・マズダーとして純粋な「火」を神聖視する「拝火教」は、
現在のアフガニスタン北部バルフでゾロアスター(ツァラトストラ)によって世界宗
教へと改革される。
最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(アフラ
・マズダー)が生命・真理を選び、もう一つの対立霊(アンラ・マンユ)が死や虚偽
を選んだ。戦いのために、善の霊は、天・水・大地・植物・動物・人間・火を創造し
た。対立霊は大地を沙漠に、大海を塩水に、植物を枯らし人や動物を殺し、火を汚し
た。こうして善と悪が戦うが、最後には善が勝利するという世界観、善悪二元論が特
徴とされる。
神道の幸魂と奇魂(荒魂)も神の両面性という点が共通しているいるかもしれない。
死後、楽土へ向かう「選別者の橋」で ミスラの審判を受けて善行を積んだものは、
楽土に渡ることができ、悪行を行った者は橋から落ちて地獄に向かうとされる。
(ミスラは契約・司法神・光明神であり、アフラ・マズダーと表裏一体の神)

ペルシャで生まれた 拝火教はユーラシア大陸の遊牧騎馬民族によって東西に広がっ
ていった。ペルシャからメソポタミアに広がりユダヤ教キリスト教に継承され、
マニ教、仏教においては弥勒菩薩として、影響を残している。
中国は、後漢(25~220)滅亡後の長い分裂と動乱を経て、581年に隋王朝
(581~618)が統一し、その半世紀後、唐時代(618~907)となる。
唐朝初めに、ササン朝ペルシャ(226~651)が、終焉を迎える。
ネストリウス派キリスト教にも、ミトラ教や拝火教は注がれている。
宗教裁判で異端とされたネストリウス派キリスト教は、ササン朝滅亡とともに唐朝
に流入する沢山のペルシャ系難民によって、「波斯景教」として広まった。
長安に建てられた教会堂は波斯寺(大秦寺)として公認されるが、武帝の時代の宗
教弾圧によって歴史から消滅する。

飛鳥時代(592~710)は、隋王朝の半世紀、ササン朝の終焉、唐の成立、そ
して大陸と日本との回廊としての朝鮮半島の国家紛争と深く関わっている。
大陸の諸王朝の盛衰が、草原の遊牧騎馬民族の大きな影響下にあったことを思えば、
中国に長期安定をもたらした強大な唐朝の出現までは、中央アジアの民と文化が、
北回りで、半島経由で、南周りで、長期間、日本列島に流入していたのは間違いない。
中央アジアの宗教や文化が最東端の日本列島に到達するまでの時間と距離の中で、原
型から表面上変化しているにせよ、そのエッセンスは日本人に浸透し、その文化は
日本人によって継承され発展していった。
火祭りの骨格を作ったのも、北方騎馬民族の民の都、飛鳥ではなかったか。

飛鳥京は藤原氏によるその後の王朝文化とは出自がまったく異なると言っていい。
飛鳥京の宮殿、宮都では、建物の床・通路・溝・道路・広場・園池に川原石が敷積め
られている。飛鳥宮からは広さ二万平方メートルの石敷きの広場が発掘されている。
全体が塀で囲まれ、幾つかの門から出入りし、宮殿内部は石敷きの通路で?がっている。
その後の、御所の紫宸殿とは似ても似つかない。
飛鳥京の寺院の軒丸瓦の菊花紋はペルセポリスのアパダナ宮殿の階段の装飾に酷似
している。飛鳥京にはペルセポリスの影が付きまとう。

打ち捨てられた石造物の中に「益田岩船」と呼ばれる大きな石檀がある。
ゾロアスター教の拝火檀ナクシュ・イ・ルスタムと形と構造がよく似ている。
石檀に穿たれた二つの炉。そしてこの形は日本の「オクドサン」に受け継がれていった
のではないだろうか。
奥津日子神と奥津比売命の二人の竈神、飛鳥に実在した二人の人物をモデルにしている
のではないか。飛鳥で火祭りの神事を執り行った男女とは誰だったのか。






橋姫02伎楽から神楽へ [橋姫]

高千穂神楽.jpg
高千穂神楽

橋姫02伎楽から神楽へ

伎楽の大らかで賑やかで猥雑な世界は、神楽の世界にひっそりと残っている。
神社の祭礼として神楽殿で奉納される神楽は平安中期に様式が完成したとされる。

神楽の語源は「神座」(かむくら・かみくら)で、「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を
行う場所」を表し、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神憑りして人々と交わる神人一体
の宴の場である。岩戸隠れしたアマテラスを再臨させるためにアメノウズメが神憑りして
歌え踊れのどんちゃん騒ぎをしたのが神楽の公式起源である。

このカラッとした明るさは、「高千穂神楽のご神体の舞」にも感じられる。
イザナギノミコトとイザナミノミコトの二神による「国産みの舞」と言われ、本来は新嘗
祭(新穀感謝祭)を祝うために男女の神が新穀で酒をつくり、神前に捧げる神楽で「酒お
こしの舞」ともいわれる。
男神は裁着袴に面をつけ、餅を入れた藁包を棒にさして担ぎ、右手の扇で棒をリズミカル
にたたきながら神庭に入り一回りする。そこに女神が桶とざるを担いで男神につづく。
二人で濁酒を漉すうちに、男神は浮気心をだし、見物の若い女性に言い寄り大騒ぎとなる。
女神に連れ戻され、漉す作業が再開する。二人で濁酒を漉しながら酒を飲むうちに酔っ払
い抱き合って夫婦となる。

伎楽で宗教説話的に描かれた色欲が、神楽の中では極めて解放的に描かれている。
登場人物に相違があるものの使われる面にも、筋立てにも共通の特徴がある。
神社や神宮が国家の体系の中に組み込まれ確立されていく中で、物部の神道の中に、飛鳥
の伎楽の世界すなわち中央アジア騎馬民族の宗教観が封印されたのではないだろうか。
伎楽においても神楽においても「酒」と「酔」と「性」と「神」は深く関わっている。

神楽は宮中で行われる御神楽と民間(狭義では関東の民間)の里神楽に分かれる。
御神楽は宮中賢所で行われ、大嘗祭の琴歌神宴・賀茂臨時祭りの環立の神楽・園井韓神楽
・石清水八幡宮臨時祭の神楽がもとになっている。
里神楽には、巫女(早乙女系)神楽・採物(出雲流)神楽・湯立(伊勢流)神楽・獅子神楽
・太神楽がある。

約90首の神楽歌が残されていて、下記が主な曲である。
「庭ビ」
「阿知女」
「採物歌」 榊・弊・杖・篠・弓・剣・鉾・瓢・葛・韓神
「大前張」 宮人・木綿志手・難波潟・前張・階香取
「小前張」 菰枕・閑野・磯等前・笹波・埴春・総角・大宮・湊田・螽斯・千歳
「早歌」
「星三種」 吉吉利利・得銭子・木綿作
「雑歌」  昼目・立弓・朝倉・其駒
「竈殿歌」
「酒殿歌」
歌詞は概ね31文字で奈良時代以後の調べである。宮人以下の歌曲はもとは催馬楽であったが、
神楽の余興に催馬楽を歌ったため、神楽歌に混入した。

奈良平安の貴族世界で雅な舞楽が隆盛する中で、飛鳥の伎楽が神楽の中で民衆の中に花開い
ていったのは何を物語るのだろう。

竈殿歌
「とよへつひ みあそびすらしも ひさかたの あまのかわらに ひさのこえする ひさの
こえする」
飛鳥の宮の石敷きの神庭で、拝火檀に火を祭り、神事をたてまつるその声は永遠に消えない
(筆者意訳)





橋姫01伎楽面とペルシャ [橋姫]

酔胡従.jpg
伎楽面 酔胡従

伎楽面とペルシャ

伎楽は、推古天皇20年(612年)百済人味摩之(ミマシ)によって中国南部の「呉」
の国から伝えられたと日本書紀にある。よって呉樂(クレガク)とも言う。
奈良の桜井に少年を集めて教習した記述が最古の記録である。

「呉」は222年の建国から280年西晋によって滅亡するまで58年の治世である。
欽明天皇(在位540~572年)の治世、呉国王の血統、和薬使主(ヤマトクスシミ
ノオミ)が仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」が献上されたとある。
「呉」滅亡から300年後になる。普通に考えて300年は長い。
呉の国の一族が日本に渡来したとして、滅亡からそう遠くない時間であったはずだ。
呉の国の人々が日本にもたらした文化は飛鳥時代より、古い時代であったろう。
したがって「呉」の記述は糊塗されたものと考える。

聖徳太子の側近に秦河勝がいる。初瀬川氾濫により三輪大神の社前に流れ着いた童子を
見た欽明天皇が、夢に「我は秦の始皇帝の再誕なり、縁ありてこの国に生まれたり」と
神童が現れたことから、殿上に召し「秦」にお姓を与えたとある。
欽明天皇は天下が疫病や飢饉が発生した時、66番の物真似を66の面を作って舞った
ところ天下が治まったとある。

明宿集より抜粋
その昔、聖徳太子の御世のことであるが、太子は橘の内裏において猿楽舞を舞うことに
よって、天下泰平が実現されるであろうとお考えになられて、秦河勝に申してけて、
紫宸殿で「翁」の舞を行った。そののちに大分に時代が下がって村上天皇の時代、
天皇はその昔に聖徳太子のお書きになった直筆の文章をご覧になり、そこに天下泰平が
もたらせるという文を見出し、その言葉を深く信ぜられて、秦河勝に子孫に申し付けて、
紫宸殿で翁を舞わせたのである。

日本書紀においては欽明天皇が66番の物真似、明宿集においては聖徳太子が翁舞、
を命じたとある。66番の物真似は伎楽であった考えてよいだろう。
書記によれば朱鳥元年686年4月「新羅の客等に饗たまわむがために、川原寺の伎楽を
筑紫に運べり」とある。当時の飛鳥で行われていたのが伎楽であったのは間違いない。
むしろ、筑紫で行われていたのが「翁舞」であったと考える。聖徳太子は筑紫のタリシホ
コであった説を是とするので、明宿集の記載は九州筑紫王朝と秦王国の出来事であったと
考える。

飛鳥時代に仏教寺院で行われたいた伎楽の上演は下記のようなものである。
「行道」
治道と呼ばれる鼻の高い天狗のような面をつけた者が先導し、笛、鼓など前奏の楽隊、
声楽隊、獅子、踊物、後奏の楽隊、帽冠と呼ばれる僧のパレード
「獅子」演技の場を踏み鎮める
「呉王」「金剛」登場の舞
「迦楼羅」霊鳥が蛇を食べる
「呉女」「崑崙」「力士」卑猥な動作で言い寄り懲らしめられる 色欲の戒め
「婆羅門」褌を脱いで洗う所作
「大孤」老人が仏に礼拝する
「酔胡」酒に酔った胡の王と従者 権威の批判
中国というよりは西域(中央アジア)の空気が濃厚である。大らかで屈託がない。
翁の世界観とは全く異なる、賑やかな傀儡の世界である。


1232年、興福寺の楽人であった狛近真が「教訓抄」を書き、僅かに筋が想像できるも
のの、平安時代には衰退し廃絶してしまった。
狛という姓は、その出身が高句麗であったことを示すものである。
飛鳥を造営したのが突厥の一族であると考えるので、伎楽が短命に終わり、より中国的な
舞楽に替わられるのも飛鳥朝の特異にして短命な独特の文化と切り離せるものではない。




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