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野宮08明星と虚空蔵菩薩 [野宮]

 虚空蔵菩薩.jpg
神宮寺蔵 蓮華虚空菩薩像 平安時代 国宝
画像ウィキペディアより

野宮08明星と虚空蔵菩薩

「明けの明星」は「虚空蔵菩薩」の化身象徴とされる。
「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ、虚空の母胎の意味の漢訳で、広大な宇宙のような無限
の知恵と慈悲を持った菩薩という意味である。元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になって
いたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとってかわられた様で、また地蔵菩薩
独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼない。

空海が室戸岬の御厨人窟で虚空蔵求聞持法を修した。
上山春平氏はルーズヴェルト大統領を大元帥明王法によって呪殺したと豪語する密教学者、
金山穆韶師の下で、これを学んでいる。

右手に宝剣、左手に如意宝珠を持つものと、右手は与願印を結び左手如意宝珠を持つものが
ある。奈良県大和郡山市 額安寺像、京都市広隆寺講堂像などがある。


祭祀から見た古代吉備 薬師寺慎一 より

黒澤山

 黒沢山は岡山県津山市東田辺(津山市の西北)にあり、標高660メートル、山頂に真言
宗の万福寺があります。「岡山県百科事典」には要旨次のように見えています。
「和銅元年(708年)に開かれた伝えられる。ご本尊は虚空蔵菩薩。この山の明星水(池)
のほとりにある巨きな檜の梢に虚空蔵菩薩が光り輝きながら来臨したという。
中世には埋経が行われ、寺には鎌倉初期の経筒が蔵されている。伊勢朝熊の「知一萬」陸奥
柳井津の「力一萬」と共に作州の「福一萬」とよばれ、日本三虚空蔵として名高い。」と。

明星

 右文に見るように黒沢山のご本尊は、「虚空蔵菩薩」ですが、本堂の背後に「明星水」と
呼ばれる泉があります。実は、この「明星」が大変大切なのです。右文中に見える、伊勢朝
熊の「知一萬」は伊勢の朝熊山(金剛証寺)のことで、朝熊山は伊勢神宮の内宮の背後にあ
り、内宮の奥ノ院と呼ばれた山ですが、そこには「明星堂」があります。結論から言えば、
虚空蔵菩薩と「明星」は深い関係があるのです。金岡秀友氏の論文「空海の謎の部分」には
次のように記されています。「虚空蔵菩薩の求聞持法を修する場所としては東西南の三方の
晴れた場所を最上とし、場合によっては東だけでもよい。道場の東側に小窓を作る。これは
虚空蔵菩薩の仮現である明星の光を道場に差し入れるためである。あるいは朝日・夕日の光
を本尊に当てる義ともいわれる。」と。右文に見える「虚空蔵菩薩の仮現である明星」の部
分が大切です。すなわち、「明星が現れる」ことは虚空蔵菩薩が感応されたということと、
虚空蔵菩薩がお姿を現されたとうことにほかならないわけです。前に引用した「三教指帰」
には「阿国大瀧岳にのぼりよじ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す。」と
ありましたが、「明星来影す」は「明星が現れた」とい意味です。「明星」は金星のことで、
夜明けに東の空に輝いてみえますが、このときは「明けの明星」とか「あかぼし」と呼び、
日没後に西の空に輝いて見える時は「宵の明星」とか「ゆうずづ」と呼んでいます。

黒沢山の「明星水」

 黒沢山の話に戻りますが、以上のような次第で、虚空蔵菩薩を祭る黒沢山の泉が「明星
水」と呼ばれているのは筋が通っているわけです。だが、今一つ大事なのは、この泉が本堂
の真後ろに位置していることです。というのは、既に何度か話したように、神社の社殿や寺
院の堂塔はずっと古い時期には無かったもので、当時の信仰の対象は聖なる岩とか聖なる泉
であったからです。即ち、元々は岩とか水がご神体、あるいはご本尊でしたが、後にはそう
した岩や泉の前に社殿やお堂を設けるようになったわけです。こうした観点からすると、黒
沢山の「明星水」が本堂の真後ろに位置していることは、それが本来はこの山(寺)のご神
体(あるいはご本尊)であった証と考えられます。だが、いま一つ特に大切なことは本堂の
真後ろの扉が開くようになっていることです。前記のように「明星水」は本堂の真後ろに位
置していますが、この泉を拝むためには、本堂の扉が開くようになっているのが最も都合が
よいわけです。





野宮07籠りと異界 [野宮]

野宮07籠りと異界

「幽」とは西北であり、「玄」とは北である。幽玄は西北と北の間の領域を指し示す言葉
である。又、「幽」とは微かで奥深いことであり、「玄」とは暗く奥深いことであり、
幽玄とは、微かで、暗く、奥深いことである。
中国の言葉であり、死後の世界や老荘思想の境地を表す言葉であったこの、「幽玄」が、
日本独特の美学に昇華していったのは何故だろうか。

輪廻、あるいは循環の思想は、太陽信仰によるものだろう。エジプトでは再生の為に死者
の体を保存した。死者の暮らしのためには、死者の町もそのままそっくり作られた。
日本において死者の霊は山にある。そして霊は山から里を訪れる。人里から遠く離れた奥
深い山は、霊の住む異界である。
東から昇り西に沈む、生と死を永遠に繰り返す世界において、異界は現世と同一平面上に
存在している。

人は、生まれ出るまで、子宮という暗く奥深い所で細い紐で母に繋がったままじっと籠っ
ている。紐の先は母という全宇宙である。誕生とともに全宇宙とつながった紐は切断され
人になる。誕生することで、宇宙から切り離され、死までの時間を生きる

異界も子宮も暗く深い静かな混沌の世界である。

紫式部は、源氏物語の執筆にあたり石山寺に参籠している。文学美術などの芸術に限ら
ず科学であれ思想であれ、創造という作業に必要不可欠な行為は「籠り」といっていい。
定理であれ発見であれ、深く暗く長く辛い「籠り」の先に、微かに来臨する光のような
物を会得した時、そこに創造があり、誕生がある。
「籠り」の時間とは、異界への旅路であり、その過程で光のようなものを得、帰還する。
「籠り」には「禊」という自己放擲という作業も伴う。「禊」が十分でなければ、光を
得る事も出来ない。
紫式部の執筆の作業は、石山寺での精進潔斎の日々と、祈りの生活の中で得る霊感や
啓示のようなものを手掛かりとしていたように思う。

優れた芸術を、「幽玄の境に遊ぶ」「幽玄に入る」と評するとき、「幽玄」という場所
が、現実社会から遠く離れた「異界」を示しており、世俗の人が立ち入ることができない、
夢幻世界との交わりを示している。
「異界」との交わりであるから、その感覚は言葉で語りつくせるものでもなく、微かに
感じる気配でしかない。したがって当然に万人が感得できるものでもない。

「幽玄」という美を発見したのは日本人であり、なぜそれを発見しえたかといえば、それ
は日本人が現実世界のそのすぐ裏側に「異界」という世界をもっていたからであり、すべ
ての創造が異界との交わりよってのみもたらされることを良く知っていたからだろう。

最高の美や創造は、人智を超えた異界からもたらされるものであり、それが得たければ、
自らが、がらんどうの器になってその来臨を祈ることしかないのだろう。
日本の伝統文化における極端な精神主義は、まさにこの方法論の極端な弊害ではあるが、
それは方法論の間違えであり、科学や理論と決して相容れないものではない。
誤解を恐れずに言えば、優れた発見や発明も「幽玄」であるといえる。

最高の美とは、歌であれ舞いであれ、そこに霊魂の世界からの波動のようなものを受け取
ることのできるものを「幽玄」というのであろう。
それは文学であれ、絵であれ、声であれ、異界からの降臨を受容できる清らかな器である
からこそ可能になるものであり、能であればそれが「型」なのだろう。
そして「幽玄」の美は、説明不可能な、感じることしかできないものである。

斎宮に籠り、禊と祈りの日々を送る斎内親王は、神妻であると同時に、異界との境に立つ、
境界の女神であり、かつての日の巫女の再臨である。
幽玄の美とは、およそ現代の私たちにはおいそれと得られない、野生の片鱗ともいえる。





野宮06六芒星と幽玄 [野宮]

甕棺墓.jpg
甕棺墓

野宮06六芒星と幽玄の道

伊勢神宮内宮」を東南に進むと「伊雑宮」を通って太平洋、その反対側西北に進むと、
順に「外宮」「斎宮」「鞍馬山」「貴船神社」「籠神社」「真名井神社」「斎宮神社」
そして日本海に出る。西北・東南ラインに一直線上に並ぶ施設は、すべてその神紋に、
六芒星を有している。南東から順に、
伊雑宮   :天照大神の御魂 裏神紋が六芒星
伊勢神宮  :天照大神 参道の石灯籠に六芒星
鞍馬山   :尊天(毘沙門天)本殿前・不動堂前の敷石に六芒星
貴船神社  :龍神 
籠神社   :龍神 神紋が六芒星の中に月と太陽
真名井神社 :龍神 マナ井(マナの壺) 神紋が六芒星
斎宮竹野神社:天照大神

「六芒星」は日本では「籠目紋」と呼ばれ、竹で編んだ籠の模様のことであり、特定の星
を指示したものではないかもしれない。しかし、、上記六芒星に関わる施設は龍神もしく
は太陽神を奉斎している。
龍は中国伝来の神で日本においては蛇信仰に習合したと思われる。蛇神→龍神
竹はその形状から蛇(=龍)を表したもの。竹+龍=籠
滝もその形状から蛇(=龍)を表したもの。?+龍=瀧
「六芒星」を日の出を待つ明けの明星に結び付けるのはそう無理な発想ではないと思う。

「六芒星」は、六角形、亀(=甕)ではないか。
甕とは口が広い入れ物である。水や穀物、遺体を入れる。甕棺墓の中の遺体はどれも膝を
折り曲げ胎児のような姿勢である。埋められた甕はまるで蛹や卵のようだ。
籠も甕も大切な命をよみがえらせる呪術だったのではないだろうか。
六芒星は死者が再び再生するためにこもる入れ物あるいは場所の印ではないか。
胎児を守る子宮、子供を孕んだ女性の腹は、甕のようにも見える。
太陽を孕む甕は、とても大きいため大甕であり、大甕は女性神であろう。

かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、鶴と亀がすべった、
後の正面だあれ
私はこの籠目歌の中にもう一つの意味が隠されていると思っている。
「籠の中の鳥」とは夜明け前の太陽
「鶴」とは火の鳥すなわち男性の太陽神、「亀」とは明けの明星すなわち女性の金星神、
「すべった」とは、太陽神としての大神(=鶴)と瀬織津姫(=亀)の統治
「後の正面」とは女性神天照大神の背後に隠された男性太陽神(伊勢大神)
背後に隠された男性太陽神(伊勢大神)の封印が解かれることを待ち望む歌でなないか。


「六芒星」とは、沈んだ太陽が再び昇るまでこもる甕であり籠であり、太陽を乗せて先
導する亀なのではないだろうか。

六芒星の神紋を持つ施設が西北ラインにまっすぐに連なって並んでいる。
東西が太陽の軸線 生命の世界、南北が北極星の軸線 宇宙の世界、西北東南は明けの
明星の軸線 甦りの呪術の世界である。

陰陽道における西北は「幽天」北は「玄天」したがって「幽玄」は北から西北にかけての
方位ということになる。真北から西北までの角度45度である。
西北すなわち乾の方位は六白金気で、その意味は、動・大始・上長・守護・首・円・車・
種子である。元々は中国思想の言葉であった「幽玄」が、和歌の世界の最高の境地を表す
言葉となり、「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし」「心にも理深く詞にも艶極ま
りぬれば、これらの徳は自ら備わるにこそ」と定義されるに至った。
「幽玄」は、その後の日本における文学芸術における到達点とされている。

斎宮制度が始まる頃、最も清らかで最も高貴な女性が斎宮として天照大神に捧げられた。
それは太陽が甦るまでの静かな篭りの世界、霊魂が再び命を得るまでの、誕生をまつ胎児
の世界である。





野宮05斎宮と明けの明星 [野宮]

賢島 明けの明星.jpg
賢島の明けの明星

野宮05斎宮と明けの明星

伊勢神宮外宮は内宮の西北に勧請され、さらにその西北に斎宮が位置する。
斎宮は天皇にかわって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族の女性の中から選
ばれて、都から伊勢に派遣された。
斎宮制度最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘、大来皇女で、最後の斎王が、後醍
醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間継続し、60人余りの斎王の名が残され
てる。
斎王になると、宮中に定められた初斎院に入り、翌年秋に都の郊外の野宮に移り潔斎の日
々を送り身を清めました。その翌年9月に、伊勢神宮の神嘗祭に合わせて都を立ち、5泊
6日の行程で伊勢に赴いた。
天皇一代に斎王一人が原則で、その任を解かれるのは、天皇の譲位・崩御・斎王の病気
肉親の不幸の場合に限られた。

伊勢において斎宮は、伊勢神宮から20キロ離れた斎宮寮で、寮内の斎殿を遥拝しながら
潔斎の日々を送る。年に3度の三節祭(6月・12月・神嘗祭)に限って神宮に赴き神事
に奉仕した。

「 隠された神々 吉野裕子」より抜粋
斎宮の旧祉は、多少のズレはあるが、ほぼ内宮と外宮をむすぶ線の延長線上にあり、内宮
からほぼ西北45度の地点にある。西北は「易」における「乾」であって、その象徴する
ものは、天・太陽・円・車である。
斎内親王はその任期中、斎宮にあって動かず、三節祭に限って内宮・外宮に参入すること
も記述した。斎内親王の本性は動かないことを、その特徴とするようである。
また西北は、太陽の象徴であるから、この西北の宮に常時居住する斎内親王の在り様は、
日神、天照大神の依代として、その本義にまことによく適っているといえよう。
次に西北の意味するものは、太陽ばかりでなく「天」でもある。天は天帝「太一」によ
って象徴され、この西北の宮に留まって動かない斎内親王は動かぬ神「太一」の象徴とも
受け取られる。

斎宮を「太一」の象徴とみるのには無理があると感じる。

斎宮は、伊勢内宮の東南に位置する「伊雑宮」との関係で捉えるべきだと考える。
斎宮→伊勢外宮→伊勢内宮→伊雑宮は、西北・東南南の軸線上にまっすぐに並んでいる。
斎宮にあって斎内親王が遥拝する伊勢神宮は東南の方向であり、伊勢神宮の後正面
は伊雑宮である。さらに伊雑宮の後正面には太平洋から上る太陽と太陽を迎える明けの明
星がある。伊勢内宮にあっての遥拝では、太一の真北に向かってしまう。
「伊雑宮」はその神紋が「六芒星」であることからして、まず星神に間違いない。
東南という方位を考慮すれば「北極星」でもない。「明けの明星」である。
太陽信仰の日本列島において、星神は決してメジャーな存在ではない。しかし、日の出を
待つ夜空に、ひときは強く輝く明けの明星が、特別な意味を持っていたと考えても不思議
はない。

斎宮は男性としての太陽神の神妻であり、太陽の神妻としての明星(金星)に最もふさわ
しい存在である。その斎宮が東南の方向を遥拝し、太陽の復活を祈るのは至極当然と思
われる。
斎宮、それは男性神天照大御神の皇后、瀬織津姫ではなかったか。
彼女の名は古事記にも日本書紀にも記されていない。
斎宮こそ、神妻瀬織津姫の後の姿、ではなかったか。





野宮04伊雑宮と金星 [野宮]

金星.jpg
金星 「天津甕星」「明星」

野宮04伊雑宮と金星

星神を中国「太一」思想だけで捉えることは十分ではない。「天津甕星」である。
葦原中国平定に最後まで抵抗した神、別名天香香背男、星神香香背男、である。
日本神話の中で、星神は「服従させるべき神」、「まつろはぬ神」として描かれている。
征服された人々の信仰が星神であったのか、征服された神に星神が習合されたのかは不明
であるにしても、太陽と星、 昼と夜、光と影、表と裏、支配するものとされるものという
二元論の中で、太陽信仰の輪廻と一体となった二元論に必要不可欠な存在であった星神は、
金星である。

「天津甕星」については諸説あるが、おそらく「金星」であろう。
星々の中で、神威大なる、甕のように大きな、光り輝くという名にふさわしく、日本人に
「宵の明星」「明けの明星」として親しまれ、和歌にも多く読まれてきた。
金星はすべての星の中で最も高度が強く、昼でも見ることができる。
地球から見える天体の中では、太陽と月に次いで明るく見えるのが金星である。
地球から見て、太陽と金星の間にできる角度を離角といい、太陽より東に見える時を東方
離角、西に見える時を西方離角といい、宵の明星は東方最大離角45°、明けの明星は西
方最大離角45°の金星である。
天香香背男という別名は、香香=蛇+背=男+男、という意味であろう。
蛇は男性としての太陽神のシンボルであり、妙に男性を強調した名前であり、作為を感じ
させる名前である。古代社会で男性太陽神とペアで奉斎される金星神は女神である。

メソポタミアでは金星の女神は「イシュタル」或は「イナンナ」と呼ばれ「天の女主人」
を意味するとされている。古代ギリシャのアフロディーテ、ローマのヴィーナスと同一視
されている。王権を授与する神でもある。
ゾロアスター教で崇拝される女神「アナーヒーター」「アナーヒト」といい、「清浄」を
意味する。主神アフラ・マズダー、太陽神ミスラとともに重要かつ最高級の神である。
本来は川や水を司る水神である。この女神は世界の中央にそびえ立つアルプス山の頂から
流れ出る川を守護するとされ、この川はあらゆる水路、川、入江、湖沼の源であると考え
られているため、アナーヒーターはそれら広くの女神とされる。
更に、この川の水が生命を育成する源泉と考えられ、アナーヒーターは健康、子宝、安産
、家畜の繁殖、作物豊穣の神ともされ、財産や土地の増大をも司どる。その絶大な神徳か
ら、サーサーン朝ペルシャの時代に極めて篤く崇拝された。

「天津甕星」は、「天照大神」が伊勢神宮で女神として奉斎される以前に、男神の「天照
大神」とペアで崇拝されていた大地の地母神、豊穣の女神なのではないか。
伊勢神宮の伊雑宮の神紋は「六芒星」、星神である。
これは「天津甕星」ではないか。
伊雑宮の「お田植え式」は志摩地方第一の大祭で「竹取り」と「お田植え」からなり、
田植えの神事の前の田に、扇に「太一」と書かれた大きな扇のついた竹たて、苗取りの後
杭から引き抜き田に倒した竹をを奪い合うのが「竹取り」の神事である。
まさに豊穣の女神に捧げる祈りの祭ではないか。 竹は太陽神、蛇の象徴、竹が立てられる
田は地母神、大地の象徴。「お田植え式」は陰陽合一の祭と言える。
「天津甕星」は、太陽神とペアであった金星神が、太陽神が女神となることでその地位を
追われ、至高神、北極星によって星神の名まで奪われたのではないだろうか。

「天津甕星」の「天津」は天孫族を示し、「甕」は太陽が沈んでから再び昇ってくるまで
隠れている天空の大きな甕であり、それは明星によって象徴され、太陽神の化身である蛇
を入れていた甕であり、がらんどうの虚空であろう。

中国では、古くは宵の明星と明けの明星を別々の星と考えており、明けの明星を「啓明」
、宵の明星を「太白」と呼んでいた。陰陽五行説においては、宵の明星を「太白昼見」と
して兵革の兆しとし、臣が君を損なう凶兆とされている。女神 天照大神の出現に際し、
中国陰陽五行説の導入することによって、金星たる「天津甕星」は、「太白」としての側
面のみ強調され、その強い光輝故に、太陽の出現を妨げる「悪しき神」とされたのであろ
う。
新しい女神の誕生の為に、かつてのこの国の古いの女神が、伊雑宮に封印された。
伊雑の宮の別名「遥宮(とおのみや)」とは、距離の遠さでなく時間の遠さではないか。



野宮03荒祭宮と北極星 [野宮]

北極星.jpg
北極星

野宮03荒祭宮と北極星

伊勢神宮内宮は「太陽神」である「天照大神」を祀る宮である。そこに中国思想「北極星」
に象徴される「太一」が習合された。
外宮は内宮「北極星」に対する「北斗七星」として、「太一」の車として、援護者として、
食物の給仕者として、内宮の北西に勧請された。
太陽神である天照大神に、宇宙神である太一を習合させるにあたり、天武天皇が持ち込ん
だ思想が陰陽道である。

「 隠された神々 吉野裕子」より抜粋
周知のように、皇大神宮のみ敷地は東と西の二つに分かれている。1973年秋のご遷宮
以来、正宮は西のみ敷地に鎮座されるが、この西のみ敷地の真北に荒祭宮が御鎮座になっ
ている。東のみ敷地からは荒祭宮はやや西北にあたる。
中国思想においては、「西北」は「幽」、「北」は「玄」の語で表現される。
「幽」も「玄」も「かくろえる所」を示す。ものの始めは「幽玄」である。
この物の始め、原初である幽玄の北の太極、荒祭宮から東西に二極を示す二つの正宮のみ
敷地が岐れ出ている様相は、周廉渓の説く、「太極図説」を思わせるのである。
「無極にして太極なり。太極動きて陽を生ず。動くこと極まりて静なり。
静にして陰を生ず。静かなること極まり復動く。一動一静、互いにその根となる。
陰に分かれ、陽に分れて両儀立つ、陽変じ陰合して、水、火、木、金、土を生ず、
五気順布して四時行わる」
伊勢神宮では式年遷宮が20年ごとに行われる。これによって正宮のご神体は第60回遷
宮では、東から西へ、その前回には西から東へ動かれるたことになる。その動きは、日本
古代信仰における神の在り様、輪廻を象徴すると思われる。
又、正宮の北に鎮座の荒祭宮を太極とすれば、この東西のみ敷地はそこから派生した陰陽
の両儀ともみられ、その意味で荒祭宮とこの東西のみ敷地は、中国哲理の造形ともみなさ
れるのである。

天武天皇は、日本の国体に太陽神を据えることで、「太一」思想の中国文明圏からの独立
を宣言し、同時に太陽神の裏に「太一」を隠すように祀ることで、「天照大神」を「太一」
の上に、日本を中国の上に捉えたのではなかろうか。
(現在の韓国が太極図を国旗にし、明治以降の日本が日の丸を国旗としていることは、朝
鮮半島が中国文化圏そのものであることを象徴し、日本は中国文化圏とは異質の独自の文
化であることを象徴していると思われる。経済軍事大国となった中華人民共和国と隋唐は
重なる部分も多く、現代日本人も天武天皇に学ぶ所が多いように感じる。)

荒祭宮に隠された神は「太一」北極星だけであろうか。
太陽神、女神としての天照大神を国体に据えることによって、古代日本の男性としての太
陽神は、出雲・熱田・鹿島の東西太陽軸ラインに別の名前で、厳重に封印した。
太陽神の神殿である伊勢神宮の地においては、この荒祭宮にひっそりと祀られていると私
は確信する。


野宮02伊勢外宮と北斗七星 [野宮]

北斗七星.png
北斗七星

野宮02伊勢外宮と北斗七星

天の中央に鎮座し、満天の星を支配する神を古代中国では「太一」と呼んだ。「太一」の
座所こそ、南北軸の北を司る「北極星」である。
「北極星」は世界の中心にあって動かない。そこで「太一」の神は、天の車に乗って宇宙
を一年で一巡し、五行の気を循環させ、世界を統治する。その車こそ「北斗七星」である。
「太一」が天照大神に集合されたとき、「太一」の乗り物である「「北斗七星」は、外宮
の豊受大神に習合された。
太陽神として死と再生を司る循環する神であった天照大神が、宇宙の中心の絶対の神とな
り、豊受大神に乗って宇宙を循環し統治する、世界の中心に座す神へと昇華したのである。

遷宮の際、ご神体をくるむ「御被」と呼ばれる衣装は門外不出・複製厳禁の霊衣である。
その秘紋が、天照大神のご神体をくるむ御被は、「屋形文錦」で、「太一」の座所である
北極星を暗示し、豊受大神のご神体をくるむ御被は、「刺車文錦」で、帝車「北斗七星」
を暗示している。

神嘗祭の行われる旧暦9月16日(新暦10月22日)・17日の子の刻(午後12時)
には、北斗の剣先は北(子)を指し、牛の刻(正午)には剣先が南(牛)を指す。
子の刻と牛の刻は、五行では「水」と「火」、方位では「真北」と「真南」である。
つまり神嘗祭の日取りは北斗によって南北軸が描かれる時に設定されている。

6月と12月の月次祭は、逆に、天に東西軸が描かれる時に設定されている。
旧暦6月17日(新暦7月22日)子の刻(夜中0時)に北斗の剣先は真西を指し、
斎宮によって玉串が捧げられる牛の刻(正午)に北斗の剣先は真東を指す。
旧暦12月17日(新暦1月22日)子の刻(正午)に北斗の剣先は真東を指し、
斎宮によって玉串が捧げられる牛の刻(夜中0時)に北斗の剣先は真西を指す。

大嘗祭における「御禊の儀」は皇太子が天皇霊と合体する、東西軸を用いた死と再生の
儀礼であり「大嘗宮の祭」は新天皇として神に神撰をささげる、南北軸を用いた神顕現
の儀礼である。

「 隠された神々 吉野裕子」より抜粋
伊勢を中国哲理による「太一」とするためには、天照大神を「太一」に習合させなければ
ならない。そうしてその次の段階としては当然「太一」と不可分の関係にある、北斗の神
も新しく祀らねばならぬことになる。しかも中国思想において「天」を象徴する方位は、
西北であるから、新しく大神を勧請する場合、当然それは西北の方位から迎えなければな
らなくなる。そこで、西北の丹波から、「止由気」という神が勧請され、「太一」を祀る
内宮に対して、その西北にあたる渡会の地に、鎮座されることになった。「太一」は内、
北斗は外であるから、ここにおいて「内宮」「外宮」の呼称が成立した。伊勢神宮におけ
る第二の変化とは、つまり天照大神と「太一」の習合の結果、必然的に起こった新事態、
まったく新しい北斗という外国の神の勧請ということであり、同時に内宮と外宮の成立で
ある。北極星象徴する天皇の呼称に、十分値する大王であった天武天皇は、こうして伊勢
の皇祖神を自身と同じく宇宙神「太一」にまで崇め、そこに北斗をも配して伊勢の宮居を、
中国哲学における「天宮」「紫微宮」としたと思われる。


野宮01伊勢神宮と太一 [野宮]

太一.jpg
伊雑宮の御田植式

野宮01伊勢神宮と太一

神武天皇に伝えられた三種の神器の一つ八咫鏡は、代々宮中内で祀られていた。
崇神天皇 5年、疫病が流行り、
崇神天皇 6年、疫病を鎮めるべく、宮中内より、「天照大神」と「倭大国魂神」を皇居
        の外に移した。
崇神天皇 7年、「大物主神」の神主太田田根子とし、「大神神社」創建
        「倭大国魂神」の神主市磯長尾市とす。
垂仁天皇25年、「天照大神」伊勢神宮内宮に御鎮座
雄略天皇22年、「豊受大神」丹波国比沼真奈井原より伊勢神宮下宮に遷座
天武天皇14年、式年遷宮の制を制定(685年)

当初、日本における世界認識の軸は東西であった。
昼夜の循環を司り、光と熱によって万物を育む太陽は、古代人にとって最も重要で輝かし
い存在であり崇拝の対象であり、至高の神に最もふさわしい存在であった。
毎日規則正しく東から誕生し、毎夕規則正しく西に没する没する太陽を見て、東は、生命
誕生・再生の方位、西は死の方位、子宮・胎・穴を象徴した。
この太陽の聖なる東西ラインを尊び、生命の循環を尊ぶ日本人の霊性は、日本という国の
形に負うところも大きい。日本は東西に伸びる島国である。
南北方向は海であり、大和朝廷を中央とするなら残る国々は、東国と西国しかなかった。
日本列島の上に東西軸を取った時、最長の長さになるのは出雲―鹿島ラインである。
日本の国土の西端は「出雲大社」、東端は「鹿島神宮」、中央は「熱田神宮」である。
ほぼ同緯度の東西軸線上に、等間隔に日本最古の由緒を誇る神宮と大社が鎮座し、中央の
熱田には「草薙の剣」が奉斎されるのである。

日本列島に、これまでなかった南北軸と中心という概念をもたらしたのが、中国の「陰陽
五行思想」である。満天の星々の中央に鎮座する神「太一」の座所である北極星と、その
真向い地上の王たる天子の祖霊を祀る南の天廟を結ぶラインが南北軸であり、そこには、
「天と王権」という新しい支配概念が含まれている。
日本が隋唐の中国文化圏の中で、その影響を受けながらも国家としての独立を守り、独自
の文化と社会を築いていく中央集権国家体制を完成させるために天武天皇が必要とした思
想こそ「太一」である。ここに、東西軸の世界において死と再生のシャーマンであった祭
祀王は、国家権力としての天皇となるのである。

「 隠された神々 吉野裕子」より抜粋
こうして天武朝に至るまで、皇祖神の天照大神だけを奉斎していた伊勢神宮は、陰陽五行
が入り、それと習合することによってその性格を微妙に変える。
すでに推古天皇15年(607年)以来、天武朝(672年)に至るまでには、65年の
歳月が過ぎている。その間、白村江の敗戦、壬申の乱のような内外の戦はあったにしても、
国家諸制度の整備、経済の発展は皇権の各段の伸長を促し、天皇像を高める周囲の客観的
情勢は、それ以前のいかなる時代にもまさっていたと思われる。
しかし事はそれだけではすまなかったはずである。国土、つまり現世を代表する天皇の昇
格は、同時にそれに対する神界、伊勢神宮の昇格をまってはじめて完成されるのである。
中国哲学に説かれる天の北極を中心とした天宮にまで伊勢をたかめてこそ、この日本の現
世・幽界ともに宇宙的規模にまで発展させられるのである。
こうしてそれまで東西の横の関係にあった神界と人間界は、中国風に天と地、上と下の縦
の関係に置き換えられることになる。この立体的な上下の関係を地上に持ち込んで平面化
すれば、神聖視される方位は、日本古代信仰における東方重視ではなく、北または西北の
方位となる。北は「太一」の居所であり、西北は「易」における「乾」で、天を象徴する
とされているからである。そこでもしこれまでに、この地にすでにあったとすれば、東向
きであったに相違ない伊勢神宮内宮の社殿は、神が北天を負うことになったため、必然的
南面することになったと私は推測する。




仕舞 野宮 [野宮]

以前、白水会で拝見した土門さんという女性の方が舞われた野宮の仕舞は素晴らしかった。とても短く、これといった特徴のある型ではなかった。にもかかわらず文学的教養に欠ける私が感じたのが何故か「これが野宮だわ」というものだった。そのころ私は六条御息所の物語だということも知らずにいたので、私の中では野宮イコール素敵な土門さんになってしまった。三川泉の野宮はどう考えても同じものとは思えないほど印象が違っていたので、どっちかがクセでどっちかがキリだったとかいうことなのだろうか。単に私が大馬鹿なだけか。三川泉の野宮は私にとっては、ハムレットを見るように骨格のしっかりした哲学的な物語になっていた。面をかけ、装束をつけ、囃子がついたとたん、すべてが情緒的なものに変容してしまうだけで、能の骨格とは、実は非常に骨太なものなのだろうか。六条御息所とは、はかなげなぽわんとした女でなく、実は強く激しいパッションを男のような強靭な論理力で押さえ込んだ哲学する女であったのか。どちらの野宮もコインの裏表だったのか。





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