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鵺 その後 [鵺]


能の鵺を見てから数日経過し、鵺ってなんだ?とういう堂々たる無知を恥じ、本日、多少の知識を得る。なるほど光と闇、栄光と挫折、勝利と敗北、頼政と鵺という二律背反がモザイクとなって世阿弥自身の心象風景の暗喩として描かれているのかもしれない。だから頼政と鵺はどちらも世阿弥。没落した我が身を、能の中で自ら射落とし刺し殺し空舟に乗せて漂わてみせる芸能者としての世阿弥の孤独で強靭な精神力。世阿弥を乗せた空舟がたどり着くのは冷たく暗い佐渡の海。鵺が本当に訪れたかったのは義満と過ごした花の御所だったのでは。だとすれば、世阿弥にとって鵺という能は、彼にとっての鎮魂、レクイエムであり、叫びであり、道化芝居だったと思うのです。


9月五雲会 鵺 [鵺]


2007年9月15日  五雲会 鵺 シテ小倉健太郎
舞囃子を見て以来、鵺ファンとなった私は正面2列目にいた。 舞囃子は水上優師で、さらりとした軽いタッチの白黒のフランス映画のようだった。 洒落ていて淡々としていてセーヌ河に浮かぶ水鳥のような鵺。 健太郎君の鵺は私の予想を遥かに超えて、フルカラーのお伽噺、魔法の国のファンタジーの世界。ワキの則久君のそばの席のため、私の気分はすっかり旅の僧侶。 私が眠りにつくのを見計らって、異界につながる御堂の扉が開くと、闇の中から泪の河 が流れ出す。泪の河に棹をさしゆらりと浮かんでいるのは悲しみのため息。 物語の常として、美女こそ残酷な強さを孕み、醜い獣こそ悲しいやさしさに満ちている。 前シテの鵺は寂しさでいっぱい。だって彼はひとりぼっちだから。 後シテの幕が上がると、夢は一変してフルカラーの星空の世界へ。満天の天の川から妖精のように鵺が現れる。殺されるという描写も、それはある種の開放であり、救いですらあるように思う。うつお舟にのせられて波に浮かぶ姿にも悲壮感はなく、 時空を超えた星の世界に漂い続ける舟のように夢見ごこちだ。 鵺を見て、めでたしめでたしなどと思う私はとんでもなくずれまくりなんだと思うけど、でも こんなお伽噺をみせてくれた健太郎君が、また好きになりました。やれやれ。


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