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海人02 百越の遺民 [海人]

三星堆遺跡.jpg
中国三星堆遺跡の日本の銅鐸によく似た発掘物

海人02 百越の遺民

6300年前 長江文明成立
 
中国長江(揚子江)流域に長江文明誕生。常緑樹の深い緑と豊かな大河、稲作の青々とした
水田の広がる、稲作漁撈民による豊かな「再生と循環の文明」であった。
稲作は、苗代から田植え、水田の水の管理、草取りと、畑作と異なり、高度な技術と熟練
を要するため共同体の助け合いが必要となる。豊穣を祈願する祭祀者が集団のリーダーに
なっていったと思われる。

・浙江省 河姆渡遺跡 BC6000-BC5000
 ジャポニカ米による稲作発祥の地、高床式住居
・四川省 龍馬古城宝?遺跡 4500年前
 長辺1100M、短辺600M、高さ7-8Mの城壁に囲まれた巨大都市
・湖南省 城頭山遺跡 6500年前
 直径360M、高さ5Mの正円の城壁に囲まれた城塞都市 世界最古の水田 農耕儀礼に祭壇

岡山県朝寝鼻貝塚 BC4000(河姆渡遺跡滅亡) 米の化石発見
 


4200年前 気候寒冷化により北方民族(漢民族)南下 

気候の寒冷化と乾燥化により黄河流域の民は南下し長江流域に押し寄せた。
「史記」によれば、漢民族最古の王朝、夏の堯、瞬、禹という三代の王が、中原(黄河流
域)から江漢平野に進出し、三苗(苗族の先祖で長江文明の民)と戦い滅ぼした。
苗族の伝説によれば、祖先が黄帝(漢民族の伝説上の帝王)の子孫と戦い、破れ斬首された。


2000年前 長江文明の遺民が九州に到達

畑作牧畜の「収奪と侵略の文明」である漢民族の武力制圧によって、長江文明の民は、雲
南省や貴州省の山岳地帯に追いやられた。又、海に逃れた者は台湾や日本列島に逃れた。
南九州の笠狭崎は中国から海を渡って日本列島に来るときに漂着する場所として知られて
いる。735年長江を下った鑑真が沖縄を経て漂着したのも笠狭崎周辺である。
漢民族に負われた長江下流域の民が漂着した南九州こそ、天孫降臨の場所である。
日本書紀においてニニギ尊は高天原から南九州高千穂峰に降臨し、住みよい土地を求めて
薩摩半島最先端の笠狭崎に移り、木花之開耶姫と結ばれている。
長江文明の遺民たちは、日本列島に漂着し、火山の噴火を生き延びた縄文の人々と融合し
ていったものと思われる。

佐賀唐津市 菜畑遺跡 BC700 水田跡

長江文明と弥生文明の共通点
・太陽信仰 太陽の運行が稲作の作業管理に重要
・鳥信仰  太陽を運ぶ 太陽の永遠の循環を助ける
・発酵食品 味噌、醤油、なれ寿司
・漆
・絹
・鵜飼   主なたんぱく源は魚
・稲作   ジャポニカ米
・高床式
・歌垣

呉(BC585-BC473)が越に破れ滅亡し、遺民として日本列島に到達。
この後隋唐という強大な国家が誕生するまで、大陸で滅亡した国の民は、次々と遺民とな
って海に出て日本列島に到達することになる。




海人01 海底の王国 [海人]

与那国島.jpg
不思議な世界旅行 写真館HP より 沖縄写真館 与那国島 海底遺跡


海人01 海底の王国


100,000前 アジアにモンゴロイド出現

70,000前―14,000前 スンダランドに東南アジアの基層文化
   気温が5~10度低く、海水面が低下したため西部インドシナの島々は東南アジア
     大陸と連続しスンダランドを形成した。ニューギニアとオーストラリアも連続
     してサルフ大陸を形成した。
海岸部を移動する海人集団が形成される。
     海と陸の交差が細分化した東南アジアの海岸は豊かな食糧資源があり、獲物を
     追って浅瀬の連なる島々を渡っていたと思われる。
     海人の生活は漁民とは異なり定住しない。漁撈、海資源の工芸、運搬と交易を
     基本とする。
     海人集団は旧石器時代、島伝いや氷河期に陸橋になった琉球列島やトウンハイ
     ランドを渡り、日本列島まで広く移動した。    
30,000前 沖縄 那覇市山下町女児化石(日本最古の旧石器人)
16,000前 沖縄 港川人抜歯の痕跡

14,000前―12,000前 ビュルム氷河期終了により徐々に水没
水没の過程で、人々は海を渡り広範に移動した。
     東南アジアからの黒潮の流れが変化し、日本海流、対馬海流が発生する。

12,000前 日本列島が完全な島となる。
10,000前 鹿児島 上野原遺跡(縄文遺跡)
      薩摩火山噴火
 7,500前 桜島噴火
 5,000前 鬼界カルデラ巨大噴火 環境変化で人々移動
 4,000前―3,000前 高温期(1-2℃)海面上昇(5-10M)
3,000前 青森三内丸山遺跡

 2,000前 大陸の長江文明の苗族が北の遊牧騎馬民族に滅ぼされ日本列島に到達

縄文人は氷河期の海面低下により大陸と地続きとなり、シベリアから北海道経由の北方経由
と、東南アジアから島伝いの南方経由の二つのルートで日本列島に到達した。
琉球列島の海底の人工物と思われるものは、海面上昇によって水没した古モンゴロイドの遺
跡と考える。
南方経由の縄文人は後の巨大噴火によって絶滅に近い過酷な境遇にあったと思われる。

その後、大陸からの長江文明の遺民を迎えることにより大きな変化を迎える。



小鍛冶01蕨手刀 [小鍛冶]

蕨手刀.jpg

秩父市HPより 蕨手刀

小鍛冶01蕨手刀

平成9年東京国立博物館は、「日本刀は蝦夷の蕨手刀が変化したもので平安中期頃に完成
した」との見解を示した。

日本列島への鉄文化の流入は、北海道東北に入った「ロシア沿岸部経由の韃靼鍛冶系」
九州・山陰に入った「中国・朝鮮半島経由の韓鍛冶系」の2系統がある。
蝦夷の蕨手刀は、アナトリアの「ヒッタイト」から草原の騎馬遊牧民族を経た「アルタイ
のアキナケス剣」が原型であると言われている。

秋田城周辺からは「アルタイのアキナケス剣」が出土している。
アキナケス剣とは主に紀元前1千年の東部地中海地方で使用されたいたタガーナイフ又は
サイフォスの一種で、長さは35~45㎝、両刃である。
起源はスキタイだが特にメディア王国、スキタイ、ペルシャ、古代ギリシャで使われた。
黒海沿岸の遊牧スキタイ、紀元前8~3世紀のウクライナのスキタイ、紀元前5~4世紀
の匈奴で使用されている。

そもそも蝦夷は、生活必需品として、刀子や蕨手刀のような小型の剣を携帯していた。
大和朝廷の成立により、700年関市令により、北辺東辺での鉄冶が禁止され、又東北へ
の武力侵攻が進む中で、蕨手刀は武器として用いられるようになりその長さを増していっ
た。奈良時代後半には戦況も激化し、坂上田村麻呂により阿弖流為が降伏し、東北は朝廷
の支配下に入った。蕨手刀は、平安初頭には、柄に空かし状の穴があいた「毛抜型蕨手刀」
に変化した。朝廷側の直刀が、鍔の装着は柄木を使い手前から行うのに対し、蕨手刀は柄
木を用いない共鉄柄のため、鍔を切っ先から装着するため、しっかりと握るため、衝撃を
吸収するために工夫されたと考えられている。
平安中期、前九年・後三年の役において朝廷側の八幡太郎義家親子と東北側の安倍貞任親
子が戦った時代には「毛抜型太刀」が用いられ始めた。「毛抜型太刀」も毛抜型・共鉄柄
・切っ先からの鍔装着である。
「毛抜型太刀」に柄木が装着されるようになり「太刀」が完成する。

日本刀が完成された平安中期、東北には「舞草鍛冶」「築山鍛冶」「玉造鍛冶」の集団が
あった。敗戦により鍛冶集団は朝廷の支配下に置かれ「俘囚」と呼ばれ、西国の特定地域
に移住させられ、移住地の鍛冶集団の成立の基礎となる。
鍛刀技術に優れた者は、大和名を与えられ律令国家の体制に組み込まれた。
源氏の宝刀「髭切りの太刀」、平家の「小烏丸」は俘囚の手による。
薩摩の「波平」の綾杉肌は奥州鍛冶の系統で西国舞草と呼ばれる。
古備前「正恒」は奥州鍛冶有正の子で、「村正」は平安城長吉の系統で、平安城長吉の父
は舞草鍛冶の長光であるから奥州鍛冶の流れである。

舞草鍛冶:岩手県一関市や平泉周辺中心に、安倍氏や東北の都平泉の需要に応じていた。
     奥州鍛冶の中心的存在
     行重・安房・森房・幡房・我里馬・鬼丸・瓦安・世安・森戸・光長・閑寂・
     国平など
月山鍛冶:出羽三山や山岳信仰を中心に諸国を従来した。室町期には山形県寒河江周辺を
     拠点
     月山・近則・鬼王丸・仏心・俊吉・軍勝など
玉造鍛冶:宮城県玉造郡周辺を中心としたため、早くから朝廷支配下に組み入れられた。
     上一丸・家則・真国・貞房・諷誦・宝寿など

蝦夷と戦った大和朝廷の兵士は大陸(中国朝鮮半島経由)系の直刀を使用していた。蝦夷
の兵士が自ら生産し、使用した蕨手刀は、馬上から斬りつけるものなので振り下ろした時
に円を描いて振り下ろせるように柄の部分が反ったものだった。刀はそれを作り用いる者
によって進化していった。
権威の象徴である朝廷は、権力の象徴である刀を我が物とする力量はなかった。
大和朝廷にとって優れた奥州鍛冶の技術は、垂涎の的であり、同時にその価値を認めるわ
けにはいかない危険な力の源泉であったのかもしれない。




橋姫07奈良の都のペルシャ人 [橋姫]

white_glass_bowl.jpg
宮内庁HPより 白瑠璃椀

橋姫07奈良の都のペルシャ人

正倉院の白瑠璃椀は、6世紀のササン朝ペルシャの王立工房で制作されたとされている。
同種のガラス器は約2000点現存するとされているが、すべてイランの古墳の土中から発見
されたもので、一度も土に埋もれる事無く美しい状態で 発見された唯一のものである。
白瑠璃椀は、ササン朝ペルシャの王が臣下や貴族に下賜するために特別に制作したもので
あった。白瑠璃椀が発見される古墳被葬者もこれに該当する。
正倉院の白瑠璃椀は、ササン朝ペルシャの王族階級によって日本に持ち込まれた可能性が
高いのではないだろうか。


642(皇極)年 ネハ―ヴァントの敗戦によりササン朝(イラン)滅亡
       ササン朝王族、遺臣らはトカーレスターンに亡命政府を作った。

654(孝徳)年 夏四月、吐火羅国の男二人、女二人、舎衛の女一人、風に会って日向に
       漂着した。

657(斉明)年 秋7月3日、都貨羅国の男二人、女四人が筑紫に漂着した。
       「私どもは始め奄美の島に漂着しました」と言った。
駅馬を使って都 (飛鳥岡本宮)へ召された。

657(斉明)年 7月15日に須弥山を象ったものを、飛鳥寺の西に作った。また、盂蘭盆会
       を行った。夕方に都貨羅人に饗を賜った。

659(斉明)年 3月10日、吐火羅の人が、妻舎衛の婦人と共にやってきた。

660(斉明)年 秋7月16日、高麗の使人乙相賀取文らは帰途についた。また、都貨羅人
       乾豆波斯達阿は、本国に帰ろうと思い、送使をお願いしたいと請い、
       「のち再び日本に来てお仕えしたいと思います。そのしるしに妻を残して
       参ります」と言った。そして十人余りのものと西海の帰途についた。

675(天武)年 春1月1日、大学寮の諸学生、陰陽寮、外薬寮および舎衛の女、堕羅の女、
       百済王善光、新羅の仕丁らが、薬や珍しい物どもを捧げ、天皇に奉った。

736(聖武)年 8月23日、遣唐副使従五位上の中臣朝臣名代ら、唐の人二人、ペルシャ人
       一人を率いて、帰国の挨拶の為天皇(聖武)に拝謁した。
       11月3日、天皇は、朝殿に臨御し、(中略)唐人の皇甫東胡、ペルシャ人
       李密翳らにはそれぞれ身分に応じて位階を授けた。

753(聖武)年 唐朝正月、玄宗皇帝との謁見式での席次が、大食(アラビア)、吐蕃(チベ
       ット)、新羅(韓国)、日本であることに、新羅はずっと昔から日本に朝貢
       している国であると抗議した。

・トカラ国について
トカーレスターン(吐火羅国、都貨羅国)は、「トカラ人の土地」を意味し、現在のアフ
ガニスタン北部、タジキスタン及びウズベキスタンに当たる。原住民のトカラ人は、イ
ラン系であったが、バクトリアと呼ばれ、アレキサンダー大王の東征によってギリシャ
文化の影響を受けた。642年アラブ軍にネハ―ヴァントの敗戦し、651年中央アジアのト
ルクメニスタンでヤズダギルド王は暗殺された。王には2人の王子と3人の王女があり、
そのうちのペーローズ(卑路斯)は群臣とともにトカレースータン山中に逃れ、王朝の再
興に望みをかけた。677年トカーレスターンにもアラブ軍が侵攻し、ペーローズは、唐に
亡命した。20年留まったその子ナルセース(泥槃師)も、708年唐に亡命した。

・トカラ人乾豆波斯達阿についての伊藤義教説
乾豆:トカーレスターンの地名クンドウス
波斯:ペルシャ人
達阿:ダルア→ダーラーイ(アケメネス朝王ダレイオスに遡る王族の名)

・舎衛婦人についての井本英一説
舎衛:トカーレスターンの地名Shawe又はSawe

・堕羅の女
堕羅=達阿=ダーラーイと舎衛婦人の間にできた娘


白瑠璃椀を携えていたペルシャ人とは、ササン朝ペルシャの王族一家
であったと思う。








橋姫06八千矛神とスセリヒメ [橋姫]

Twolovers.jpg
「 宮廷の恋人たち」 イスファハン 1630 年

橋姫06八千矛神とスセリヒメ

兄達の攻撃から逃れた大国主神は、スサノオの根の国でスサノオの娘スセリヒメに出会う。
スサノオの与える数々試練を乗り越え、スサノオの「刀」「弓矢」「琴」を奪い、二人は
駆け落ちする。やがて兄達を打ち払い宮殿をたてます。

八千矛神(大国主神)の大后スセリヒメは大変嫉妬深い方でした。
それを夫は心配して、出雲からヤマトへ出発しようとして片手を馬のくらにかけ、片足を
馬の鐙に踏み入れ、こう歌った。

ぬばたまの 黒く御衣を   まつぶさに 取り装い
沖つ鳥   胸見る時    はたたぎも これは適さず
辺つ波   そこに脱ぎ捨て 
そに鳥の  青き御衣を   まつぶさに 取り装い
沖つ鳥   胸見る時    はたたぎも これは適さず
辺つ波   そこに脱ぎ捨て
山県に   蒔きし     あたね春き
染木が汁に 染め衣を    まつぶさに 取り装い
沖つ鳥   胸見る時    はたたぎも 此し宜し
いとこやの 妹の命
群鳥の   我が群れ柱なば 引け鳥の  我が引け柱なば
泣かじとは 汝はいうとも  山処の   一本薄
項傾し   汝が泣かさまく 朝雨の   霧に立たむぞ
若草の   妻の命     事の語事も 是をば

筆者意訳
異国の姫が織った黒い御衣を着てみたが、似合わないので捨ててしまおう
異国の姫が織った青い御衣を着てみたが、似合わないので捨ててしまおう
あなたがあかね草で染めた御衣を着てみれば、とてもよく似合うのでこれを着よう
いとしい妻よ、皆と一緒に私が旅に出ても、泣かないとあなたは言うが、
きっと、山辺の一本の薄のようにうなだれて、その吐息は霧となって立つだろう
いとしい妻よ

八千矛神がこう御歌いになるとスセリヒメは大きな酒杯をとって、夫の側に立ち寄り、杯
を捧げてお歌いになった。

八千矛の  神の命や    吾が大国主
汝こそは  男に坐せば   打ち廻る  島の埼埼
かき廻る  磯の埼落ちず  若草の   妻持たせらめ
吾がはもよ 女にしあれば  
汝を除て  男はなし    汝を除て  夫はなし
綾垣の   ふはやが下に  苧衾    柔やが下に
楮衾    さやぐが下に
淡雪の   若やる胸を   楮綱の   白き腕
そだたき  たたきまながり 真玉手   玉手さし枕き
百長に   寝をし寝せ   豊御酒   奉らせ

筆者意訳
八千矛の神、大国主よ
貴方は男ですから、訪れる島々に妻がいらっしゃるのでしょう
私は女ですから、男はあなただけ、夫はあなただけ
綾の帳がゆらめく下で、柔らかな絹の上布にくるまれて、
さわやかな楮の褥の上で、淡雪のように私の白く若い胸を、
楮の白い綱のようなあなたの白い腕で、たっぷりと愛撫して
そして玉のように美しい私の手枕で、いつまでもお眠みください
この酒杯を馬上のあなたに捧げましょう

このように歌われて杯を捧げると、自らも馬上に上がり八千矛神の背に顔をうずめられ、
そののち、どこまでもお二人が離れることはなかった。
こうしてお二人の愛は永遠のものとなった。

古事記に残された、神々の甘く濃密な恋の記憶
飛鳥の石人男女像は馬上で杯を交わす大国主とスセリヒメかも。






翁09宮地嶽の翁 [翁]

筑紫舞.jpg
筑紫舞 宮地嶽神社HPより


翁09宮地嶽の翁

黄金色の王墓
福岡県福津市の宮地嶽古墳は、6世紀の築造と推定される古墳時代終末期の大型円墳で
ある。260年前、宮地嶽神社境内の宮地嶽中腹にある不動神社において発見された。
古墳直径は34メートル、横穴式石室は全長22メートル、高さ幅とも5メートルを超
大きな石を積み重ねて作られている。
金銅製馬具類、金銅荘頭椎大刀、長方形縁瑠璃板などの豪華な副葬品が、約300点出
土した。金銅製の冠には黄金に龍や虎の透かし彫りが施されている。3.2mの特大太
刀は頭椎がついており、金の装飾が施されている。金銅製の鐙は、金の七葉唐草文が貼
りつけられている。
古墳の主は、金冠をいただき、金の刀装具や馬具で身を固めた人物であり、北部九州
王であったと考えられている。被葬者は宗像一族の首長墓とされ、日本書紀673年の
記述より宗像君徳善と推定されている。

筑紫舞と九州王朝
筑紫舞は、筑紫傀儡子によって伝承された伝統芸能で、続日本書紀731年の記事にそ
の名を留めている。神舞、傀儡舞などに分類される200以上の舞が、口伝により伝承
れてきた。現在の伝承者は箏曲家菊邑検校から戦前に伝承を受けた西山村光寿斎である。
宮地嶽神社の奥宮、不動神社の横穴式石室古墳内で筑紫舞が代々舞われたいたらしい。
宮地嶽神社では現在でも、宮司や神職による筑紫舞の奉納は行われている。
傀儡子による筑紫舞は宮地嶽古墳内で続けられていたことから、古墳の発見が260年
前とすると、古墳内での傀儡子による舞は260年続けられたということになる。
古田武彦著幻の筑紫舞に、西日本新聞学芸部によれば「いや、今、こちらには『筑紫舞』
などというものは伝わっていません。それを名乗っているものは、戦後新しい流派を立
てた人のものだけです。戦前からのものは全くありません。」との記述がある。
筑紫舞という芸能が731年に存在していたのが事実として、それが現在の筑紫舞とど
のような関係があるのかないのかは不明だが、表現されている形態はまったく異なって
いるとしてもエッセンスの部分に何か痕跡が残っていても不思議ではない。

傀儡舞の翁
筑紫傀儡の菊邑検校が西山村光寿斎に伝え残した筑紫舞は、宮地嶽古墳内で舞われてい
たとすれば、260年前古墳が発見された時点で、何らかの動機をもって傀儡が舞の舞
台に古墳を選んだことになる。古墳の主に舞を捧げる必然性は何だったのだろうか?
古墳は墓であると同時に、王位の継承の儀式の舞台であったはずだ。傀儡子は木偶その
もの、またはそれを操る部族のことで、平安時代には狩りを行いながら諸国を旅する職
芸能人の集団である。人形と、そこに命を吹き込む傀儡の関係は、王の死んだ体と新
しい王の誕生を司る神職との関係に似てはいないだろうか?死と再生の呪術は、世阿弥
によって能という美学に昇華されていったのではないだろうか。能が表の歴史に咲いた
高貴な白い花ならば、傀儡舞は歴史の裏側で底辺に咲いた血の色の花なのだろう。

古田武彦 幻の筑紫舞より

資料 四夷之樂
中国の天子に対して、四辺の夷蛮は各自の舞楽を献納する習わしがあった。その中で、
東夷の舞楽を靺(パイ)又は昧(マイ)と呼ぶ。卑字である。
・中国王朝の儀礼 周囲の夷蛮は各自の舞楽を献納
・大和朝廷の儀礼 中国の模倣 隼人舞いなどの献納
・大和朝廷に先んずる九州王朝でも同じような儀礼があったと推測される
・周辺領域の舞楽を九州王朝に奉納する形式と推測される

資料 西山村光寿斎談
筑紫舞の中の一番中心になる舞に「翁」がある。「翁」は諸国の翁が集まって諸国の舞
をまうもので、
三人立ち 肥後の翁+都の翁+加賀の翁
五人立ち 肥後の翁+都の翁+加賀の翁+難波津より上がりし翁+出雲の翁
七人立ち 肥後の翁+都の翁+加賀の翁+難波津より上がりし翁+出雲の翁+
     尾張の翁+夷の翁
(古田説 都の翁の都は筑紫の中心太宰府をさしているものと推測される)

資料 筑紫舞の由来 1886(明治19)年 船越武四郎政重
明治以前には、筑紫の各神社の神官が神楽を行ってきた。明治維新により神社制度が変
わり神楽ができなくなったためその断絶を恐れ、田島八幡の社中の老が寄り集まり、平
尾邑の一本木の神官の下に出向き神楽舞の伝授を受け、以後筑紫舞として伝えることと
した。

資料 肥後国誌記述
・菊池郡の北宮で「山の能」と称する舞樂が行われ、その中心に「翁の舞楽」があった
・島津の軍隊が戦争の折、「翁面」を戦利品として持ち帰った
・戦後、隈府の能太夫藤吉雅楽が島津家に返却を求めると八代に返したと言われた
・雅楽は八代から「翁面」を返してもらった
・隅府の「山の能」の座中が「翁面」は自分たちのものであると訴訟になった
・白銀二百目の金子で訴訟が解決した
・菊池家が滅亡し、能式も滅びた

能が世阿弥の時代に完成されるずっと昔、日本という国家が誕生するときに、すでに翁
が舞われていたことを思うと、その有り難さと懐かしさに涙がこぼれるばかりである。





翁08草原のシャーマンと鍛冶師 [翁]

ヤズルカヤ.JPG
ヤズルカヤ(ヒッタイトの聖域) 12人の黄泉の国の神官


翁08 草原のシャーマンと鍛冶師

鉄と人類の出会いは「隕鉄」である。
紀元前3000年前のメソポタミアのウル遺跡から鉄器の断片が発見された。

隕鉄は天からの崇高な贈り物として王に帰属した。隕鉄を加工し、王剣や祭器の制作に当
たる技術者は、神聖なるものに触れる故に神事に携わる神官として特定の血族に限られた。

鉄の帝国ヒッタイトは、アナトリア(現トルコ共和国)で紀元前1650年頃誕生した。
ビュクリュカレ遺跡はアッシリアの植民地として紀元前2000年頃建設され、1650
年頃火災により焼失し、ヒッタイト帝国はその土着の文化の土台の上に築かれた。
帝国の首都はハットウシャシュ、宗教的中心はアラジャホユック(アリンナ)である。
ヒッタイトの「千の神々の民」の最高神が、太陽の女神アリンナである。
紀元前1190年頃滅亡するまで、その製鉄技術による武力によりメソポタミアを支配し
た。

特定の氏族に鉄の加工技術が蓄積されていった結果、人工鉄の製造技術が誕生した。
鉄を生み出すのは神だけとされた時代に、石塊から神聖な鉄を生み出す技術は、神の技術
であり、神に仕える鍛冶師が、神として、王になることが可能になった。
鉄を生み出す力を持つ者は、アリンナの太陽神の神託を受ける神官から、世俗的権威者で
る王へと変化した。
ルーマニアの20世紀最高の宗教学者ミルチャ.エリアーデ(1907-1986)によればアジア
ヨーロッパの広い地域で、鍛冶師が神の仕事を完成し神の名においてその仕事をするもの
として、古代の共同体においては重要な役割を占め、共同体の最初の王は、鍛冶師であっ
たという多くの例を上げている。

ヒッタイトの民族は各地へ流出して行き、製鉄技術は、ダマスカス→エルサレム、バビロ
ニア、パルティアを経て各地に伝播していく。
・西ルート
 エジプト→バクトリア(エーゲ海文明)→ローマ→ピレネー山脈(スペイン)→旧カタ
 ロニア王国【カタラン製鉄法】
・東ルート
 バーミアン、カブール、カンダハール、ペシャワールを経て2つのルート
 →現パキスタン→インド南部ウーツ→チベット→江南の夏、商、殷
 →ホータン→楼蘭、敦煌→西安→タタール
・海ルート
 チグリスユーフラテス河→紅海→インド→インドシナ→海南島

ヒッタイトの鉄技術の神髄は「鋼」であり、その鋼の技術者はほんの一握りの最高神官で
ある。彼らがその後どのような足取りをたどったのかはわからないが、再び鋼の技術が花
咲くのは日本列島である。

ヒッタイト滅亡後、その鍛冶シャーマンの文化は草原の遊牧騎馬民族国家スキタイにわた
り、スキタイからその後の中央アジアで様々に展開していった。
シベリアの諸部族において鍛冶師は特定の家系の者の秘術とされ、神職者シャーマンでも
あった。ヒッタイトの神事における祭器は、金属音を出す錫杖型のもの、鹿や牛を型どっ
たものが見つかっている。シベリアのシャーマンの服についた沢山の鉄鐸、鹿の角のつい
た兜、あるいは風の神を象徴する服についた沢山のひも状のヒラヒラ、これらはヒッタイ
トの鍛冶神官に由来していると考える。

「遊牧騎馬民族国家 護雅夫著」より

・未開社会においては鉄に異常な霊力が認められた
・北アジア、中央アジアの遊牧民族においても鉄に異常な霊力が認められた
・ブリヤートでは鍛冶の能力を持つものは神の後裔
・後世のブリヤートでは、刃物は病人に睡眠中の人を守ると考えていた
・鍛冶、鍛冶師は社会で重要な地位を占めていた
・モンゴル民族の君長、君主は鍛冶師であった
・モンゴル民族の始祖伝説 エルゲネークン山脈で鉄鉱を採掘していたところに木材
 を積みあげてそれに火をつけ、70個のふいごであおりたてて、鉱坑を爆発させ、
 その開かれた通路を通って新天地オノン、ケルレン、トラ三川の河畔に出た
・ジンギス=カンは鍛冶師であった(伝承)
・モンゴル王朝イル汗国では毎年除夜に、鍛冶師などが君主の面前で熱した鉄を鍛え、
 満廷の人士はおごそかに上天に感謝する儀礼をおこなった
・新羅の昔氏の始祖脱解王は鍛冶師であった
・突厥の阿史那氏族は「柔然の鉄工」としてアルタイ山脈南方で鍛鉄に従事していた。
 アルタイ(金)山の形は兜に似ていて、兜を「突厥」と呼んでいたので、自らを、
 「突厥」と称した

ヒッタイトを起源とする鍛冶シャーマンが日本列島に渡来していたと私は確信する。







翁07草原のシャーマンと天皇 [翁]

神職.jpg
神職
画像は日文研データベース 日本生活の図絵より

翁06草原のシャーマンと天皇

日本列島に到達した集団の中で、天孫族がいつの時代に到来したのかはわからないが、天
孫族に残る祭祀の中に出自に由来する痕跡が残ってはいないだろうか。
吸収した先住民の神話や祭祀を己の中に取り込んでいるにしても、皇統の正当性に関わる
部分、つまり即位儀礼に関してはアイデンティティを求めるのではないだろうか。
天皇家の即位儀礼の中に、遊牧民族(騎馬民族)との類似性を認める論がある。

「遊牧騎馬民族国家  護雅夫著」より抜粋

アジアの遊牧民族は、おしなべてシャーマニズムの信者でした。
シャーマニズムにおいては、その神統は、まず、大きく、
(1)天上界にいます最高存在―最高神―を頂点として組み立てられた階層内の様々な天
の神霊、日月星辰の神霊、光明と善霊、
(2)地上界の土地・水・山・川・火などのもろもろの神霊、
(3)地下界に住む最大魔神をはじめとして、一つの階層に組み込まれた多くの鬼神霊、
暗黒と悪霊
これらに分けられます。神の子が、何かに包まれて、上天から降臨するというモチーフは
北方遊牧民族に共通する。地上の人間にとっては神霊を招ぎまつる招代であり、出現する
神霊にとっては降臨の要具であった。
「神の子を包む布」は人間と神との交融・転化の聖具であった。

・突厥の即位儀礼

その王が即位する際、その近侍・重臣共が王を「氈」にのせて、太陽が運行すると彼らが
考えた―順に―つまり、東から南へ、それから西、次いで北の順に―、九回回り、一回り
するたびごとに、臣下はみな拝する。拝し終わると、王を助けて馬に乗らせ、帛でその頸
を締め付ける。新王の呼吸がたえそうになると、手を緩め、すぐさま、かれに「なんじは
何年間、カガンとして在位できるか」ととう。王は神情が乱れていてその年数をはっきり
とは答えられない。
しかし臣下どもは、その王の答えによって、その在位年数の長短を知る。

・天皇の即位儀礼
新嘗祭は、天皇がその年の初穂を天神地祇にささげてその恩に感謝し、またこれを食する
祭り。
天皇の即位後はじめておこなわれるものを大嘗祭といいとくに重要視されている。
そして天皇の即位式は、じつはこの収穫祭を本体としたものであった。
大嘗祭の時、御殿の床に八重畳をしき、神を「衾」で覆って伏させ、天皇も「衾」を被っ
て伏し一時間ほど絶対安静の「物忌」をする。これは死という形式をとっているが、その
間に神霊が天皇の身に入り、そこではじめて天皇は霊威あるものとして復活する。
この大嘗祭(即位式)において天皇が忌こもるさいに被る「衾」こそ、日本神話に見える
真床追(覆)衾の意義をはっきり説明するものに他ならない。

・契丹の即位儀礼 柴冊儀
柴冊儀には吉日がえらばれるが、その前に柴冊殿と壇とを置く。壇は、薪を篤く積み、木
で三層につくり、その上に壇をおいて、長さ百尺の氈と、竜紋のある四角の茵とをしくの
である。さて、皇帝は再生室にはいって、再生儀をおこなう。それがおわると。長老その
ほかのものたちは、皇帝を助けて、冊殿の東北隅へ導いてゆく。皇帝は太陽を拝し、終わ
ると、馬に乗り、外戚のうちの長老を御者とする。皇帝は疾走して倒れる。御者と従者と
は、「氈」でこれをおおう。皇帝は小高い所に上り、大臣と諸部の長とは、儀仗を列して
はるかに拝する。そののち、皇帝が即位することを受諾し、終わって宴が貼られる。あく
る日、皇帝は冊殿から出て、護衛の臣にたすけられて壇に上り、祖先の神主を奉じて龍紋
のある四角の茵におく。宰相たちは群臣を率いて環状に立ち、それぞれ、皇帝のいる「氈」
のふちをもって持ち上げ、祝いの言葉を述べる。続いて、冊を読み上げ、尊号を称して皇
帝にすすめ、群臣が万歳を三唱して拝し、宴が張られて終わる。

・鮮卑の拓跋(華北に北魏を立てた)の即位儀礼
黒い「氈」で7人の人間を覆い、新しい君主は、その「氈」の上で、西方に向かって天を
拝する。

・ジンギス=カンの即位
7人の首長が、ジンギス=カンの座っている黒い「フエルト」を持ち上げた。

・カムルク族
部族の首長は、部族の一般的集会で選ばれた。この選任の結果は、選ばれた人物を、一枚
の「フエルト」の上にのせることによって知らされた。

・キルギス
新しくカンになるものを、「薄くて白いフエルトの敷物」にのせて、何度も高く放り上げ
ては落す儀式が行われた。

・南朝鮮 加羅国の建国伝説
神の子は「紅幅」につつまれて天降り、酋長我刀の家に持ち帰られて、かつ、しとねの上
におかれています。

筆者まとめ
・遊牧民族の即位儀礼と天皇家の即位儀礼には共通のモチーフがある。
・「神の子」は布に包まれたり、布の上に座っている。
・「神」は天から降臨する。(人間との水平ではなく、垂直な関係)
・北極星と北斗七星の関係を想起させる
・布のモチーフは胞衣に関係しているのではないか?(聖職者のマント)






翁06草原のシャーマンと大麻 [翁]

大麻.jpg
大麻 麻苧のみがついている。春日大社の本殿入口で参拝者が自分を祓う
画像ともウィキペディアより

翁06草原のシャーマンと大麻


「大麻と古代日本の神々  山口博著」より抜粋


斎部広成が大同二年(807年)「古語拾遺」を著した。

斎部氏とは忌部氏の後裔であり、さらにその後裔が佐々木氏である。
記紀によれば、忌部氏の祖先の太玉命は、高産土神の子で、叔母天照大神が再び天岩戸に
隠れないように注連縄を張った。天孫降臨に際してはニニギ命の従った。

①太玉命は長白羽神には麻を植えて青和幣を、天日鷲神と津昨見神には穀(コウゾ)の木
 を植えて白和幣を作らせた。麻と穀は一夜で芽生え葉が繁った。
②賢木の下枝には阿波国忌部氏の祖先である天日鷲神が作った木綿(由布)を掛けた。
③天富命(太玉命の孫)は由布津主等を連れて阿波へ、、一部は安房へ行った。

佐々木氏は「和幣」を大嘗祭に際して歴代天皇に献上してきた。
「和幣」は、南シベリアのシャーマンが大鷲の姿になった時に体につける無数のテープ
の飾りである、現地の聖木にもテープが巻かれている。
天日鷲神とは、このシャーマンの神ではないか。

津軽半島のイタコが奉るオシラ様にはテープ状の布や紙が木の棒に巻かれている。
イタコは、ツングース語のイダコン、モンゴル語のイドカン、契丹のイドウアン、キルギ
スのドウアナと同じシャーマンを意味する。

スキタイ・マッサゲタイの麻の吸引に関するヘロドトスの記述
スキタイ・バジリク古墳からの麻を燻らす器具の出土
楼蘭の大麻草を持つシャーマンのミイラ
黒竜江沿いの漢代の遺跡
粛慎が欽明5年に佐渡で騒いだ(日本書紀)

シャーマンは幻覚剤を使用して、ヴィジョンを得、神託(天語歌)として人々に伝えた。
幻覚剤とは大麻である。麻には幻覚作用の強い亜種と弱い亜種があり、西日本の麻は弱く、
東日本の麻は強い。日本各地の遺跡から麻の種子が出土しているが、多いのは北海道、東
北・北関東にも多いが西日本は少ない。北海道に粛慎は持ち込んだかもしれない。
麻の読みAsaは、中央アジア、トルキスタンの麻の呼び名Hasha又はAsavathの語幹Asa又は
Ashaに由来する。中国語の麻の読みにAsaに近い音はない。

三国志魏書 ワイ伝 「ワイは麻を栽培する」
牡丹江流域から北朝鮮にかけて勢力を持っていたワイは、扶余・高句麗に押され、前3世
紀には北朝鮮まで縮小した。「ワイ」はスキタイ文化の伝播者であるモンゴルの「貊」を
併合している。
貊→ワイ→東日本のルートで、シャーマンが大麻を列島に持ち込んだのではないか。

筆者追記
着物の麻の葉模様は、魔除けの模様である
・神官は麻の白衣を着用する
・神官の着物の袖口には紐が垂れ下がっている
・物部神道では幣帛、紙のぴらぴらを多用する
・能の道具には白い布が巻かれている(依代か)
・能における臣下の登場に際し、鳥の羽ばたきの様な仕草をする




野宮08明星と虚空蔵菩薩 [野宮]

 虚空蔵菩薩.jpg
神宮寺蔵 蓮華虚空菩薩像 平安時代 国宝
画像ウィキペディアより

野宮08明星と虚空蔵菩薩

「明けの明星」は「虚空蔵菩薩」の化身象徴とされる。
「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ、虚空の母胎の意味の漢訳で、広大な宇宙のような無限
の知恵と慈悲を持った菩薩という意味である。元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になって
いたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとってかわられた様で、また地蔵菩薩
独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼない。

空海が室戸岬の御厨人窟で虚空蔵求聞持法を修した。
上山春平氏はルーズヴェルト大統領を大元帥明王法によって呪殺したと豪語する密教学者、
金山穆韶師の下で、これを学んでいる。

右手に宝剣、左手に如意宝珠を持つものと、右手は与願印を結び左手如意宝珠を持つものが
ある。奈良県大和郡山市 額安寺像、京都市広隆寺講堂像などがある。


祭祀から見た古代吉備 薬師寺慎一 より

黒澤山

 黒沢山は岡山県津山市東田辺(津山市の西北)にあり、標高660メートル、山頂に真言
宗の万福寺があります。「岡山県百科事典」には要旨次のように見えています。
「和銅元年(708年)に開かれた伝えられる。ご本尊は虚空蔵菩薩。この山の明星水(池)
のほとりにある巨きな檜の梢に虚空蔵菩薩が光り輝きながら来臨したという。
中世には埋経が行われ、寺には鎌倉初期の経筒が蔵されている。伊勢朝熊の「知一萬」陸奥
柳井津の「力一萬」と共に作州の「福一萬」とよばれ、日本三虚空蔵として名高い。」と。

明星

 右文に見るように黒沢山のご本尊は、「虚空蔵菩薩」ですが、本堂の背後に「明星水」と
呼ばれる泉があります。実は、この「明星」が大変大切なのです。右文中に見える、伊勢朝
熊の「知一萬」は伊勢の朝熊山(金剛証寺)のことで、朝熊山は伊勢神宮の内宮の背後にあ
り、内宮の奥ノ院と呼ばれた山ですが、そこには「明星堂」があります。結論から言えば、
虚空蔵菩薩と「明星」は深い関係があるのです。金岡秀友氏の論文「空海の謎の部分」には
次のように記されています。「虚空蔵菩薩の求聞持法を修する場所としては東西南の三方の
晴れた場所を最上とし、場合によっては東だけでもよい。道場の東側に小窓を作る。これは
虚空蔵菩薩の仮現である明星の光を道場に差し入れるためである。あるいは朝日・夕日の光
を本尊に当てる義ともいわれる。」と。右文に見える「虚空蔵菩薩の仮現である明星」の部
分が大切です。すなわち、「明星が現れる」ことは虚空蔵菩薩が感応されたということと、
虚空蔵菩薩がお姿を現されたとうことにほかならないわけです。前に引用した「三教指帰」
には「阿国大瀧岳にのぼりよじ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す。」と
ありましたが、「明星来影す」は「明星が現れた」とい意味です。「明星」は金星のことで、
夜明けに東の空に輝いてみえますが、このときは「明けの明星」とか「あかぼし」と呼び、
日没後に西の空に輝いて見える時は「宵の明星」とか「ゆうずづ」と呼んでいます。

黒沢山の「明星水」

 黒沢山の話に戻りますが、以上のような次第で、虚空蔵菩薩を祭る黒沢山の泉が「明星
水」と呼ばれているのは筋が通っているわけです。だが、今一つ大事なのは、この泉が本堂
の真後ろに位置していることです。というのは、既に何度か話したように、神社の社殿や寺
院の堂塔はずっと古い時期には無かったもので、当時の信仰の対象は聖なる岩とか聖なる泉
であったからです。即ち、元々は岩とか水がご神体、あるいはご本尊でしたが、後にはそう
した岩や泉の前に社殿やお堂を設けるようになったわけです。こうした観点からすると、黒
沢山の「明星水」が本堂の真後ろに位置していることは、それが本来はこの山(寺)のご神
体(あるいはご本尊)であった証と考えられます。だが、いま一つ特に大切なことは本堂の
真後ろの扉が開くようになっていることです。前記のように「明星水」は本堂の真後ろに位
置していますが、この泉を拝むためには、本堂の扉が開くようになっているのが最も都合が
よいわけです。





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